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のブログは管理人がその時々に思うところを手に投稿しています。

 

神様はいるのかいないのか?

様はいるのか?いないのか? 神は人間が作り出したものという人が多くいます。不思議な現象が起きると神様がいると信じます、その現象が科学的に解明されると神はいないと思う。自然そのものが神だと言う方もいます。人それぞれです。しかし、この自然という仕組みを造ったのは誰なのでしょう?偉大な神様ではないかと思います。見えないから神はいないという人もいますが、パソコンのシステム(ソフト)も見えないけど働いています。神がいるなら自然災害や戦争も起きないはずという人もいます。神は自然にも命を与えているので災害もおきます。戦争も人間が起こすのです。神が起こすのではありません。天理教では身体は神が貸して、心は人間のものという教えです。戦争を起こすのは人間の未熟さです。

天上天下唯我独尊

お釈迦様は生まれてすぐ7歩歩いて【天井天下結唯我独尊】と言われたそうです。生まれてすぐ歩けるわけもなくまして、言葉をしゃべれるわけではないけれど、仏教の真髄ということを言っているのでしょうか?この言葉を直訳すると、【この世の中で唯一自分が尊い存在である】ということになりますが、誰しも自分自身が一番大切です。自尊心とは、自分の存在を尊べることを「自尊心」といいます。自身を本当の意味できちんと大切にできる感覚のことでもありますね。ありのままの自己を尊重できる人は、ありのままの他者をも尊重することができます。逆に自尊心が低くなると、自分に自信が持てなくなるのです。そして、自己愛が大きくなってくるのです。自己愛が強くなると、自己で自分に酔ってしまいます。すると「私ほど立派な人はいない」と陶酔していまうのです。すると何を求めるかというと「人から賞賛されことを望んでしまう」のです。
では、そんな私が誰からも賞賛されなくなったとき、どうなるのでしょうか? 実は欲求不満になってしまいます。「どうして私にしてくれないの!」という苛立ちにかわるのです。
実は自分の自信のなさが、自己愛を大きくしているのです。不安だからこそ、相手に自分の存在をアピールしてしまうのです。「これだけやっているのに誰も認めてくれない!」ではなく、与えられた仕事を一生懸命にしたらいいのです。観ている人は観ています。お釈迦さまは、「天上天下唯我独尊」と言われたと伝えられました。「私だけが尊い」というのではありません。皆自分が一番尊い存在と思っていることを言われたのです、ですから自分の意見だけが正しいとか自分が特別な存在と考えず他の人のことも尊重しなさいと言われたのです。
私たちは、名誉や地位があるから、財産があるから、能力が優れているからということで優位に立とうとします。それはただ自分に酔っているだけなのです。他人と比べて立派だと思いこんでしまうのは独りよがりの生きかたでしかありません。しかし、この釈尊の言葉は、人間は何らかの条件によって尊いのではなく、この私を大切に生きている人が尊いとお教えくださったのです。カースト制度のある社会でこんなみな平等で大切な存在ということを教えられたのは素晴らしいことですね。


男はつらいよ

8月2 7日は【男はつらいよの日】ということだそうです。 渥美清のフーテンの寅さんの第一作映画がはじめて上映された日だそうです。 日本では男性は、女性よりも自殺率が2倍だそうです。男はつらい! この理由は ①男は働いて家族を養うという意識が高い。 ②コミュニケーションをとるのが女性よりも下手。 ③弱音を履いたり出来ず相談しない。 などいろいろな原因があるそうですが、 今は女性だって仕事で重責をになっているものです。男性も女性もつらいですね。生きやすくなるには、心も持ち方が大切ですね。今、この世に人間として命を授かっているありがたさを感じることが大切です。こうならなくてはいけないなどと自分を決めつけない心の柔軟さ広さが大切です。陽気暮らしの原点は今生きていることへの感謝。

浦島太郎

日本の昔話は必ず教訓があります。子供たちに対して立派な大人になってもらいたいとの気持ちで、おとぎ話を聞かせていたのだろう。桃太郎のお話では、桃から生まれた桃太郎が、犬・猿・キジをお供に連れて悪い鬼たちを成敗する物語です。猿は木の上からものを投げつけることができる。犬は鬼のあしにかみつくことができる。キジは空を飛んで鬼たちの状況を把握できるので酒盛りをしたあとの攻撃のタイミングを桃太郎に伝えることが出来た。それぞれ持ち味を生かして協力すれば怖い鬼も退治できるということを教えている。一寸法師は身体は小さくても勇気があればなんでもできることを教えている。  しかし、浦島太郎の物語は何を教えているのだろうか? 浜辺で子供たちにいじめられている亀を助けたので、亀は恩返しにと浦島太郎を竜宮城へ連れて行った。海のお姫様である乙姫様は亀を助けたお礼にと浦島太郎を歓迎して、鯛やヒラメの舞踊りなど宴会を開いて接待した。浦島太郎は数日楽しんだが、元の世界に帰りたいと告げると、乙姫様は絶対に開けてはならないと言って【玉手箱】を渡し元の世界に戻してあげたが、浦島が戻った世界は竜宮城では3日間が陸上では300年が経っていた。両親も友達もみな亡くなっていて知り合いはいなかった。そこで玉手箱を開けたら白い煙が出てきて、たちまち浦島太郎は白髪の老人になってしまったとのことです。教訓はなんなのか?悲しい結末です。開けてはならない玉手箱を開けたからいけないのか?開けなくても両親や友達に会うこともできなくなって独りぼっちになったのは、接待を受けたからなのか?こんなことになるのなら亀を助けなければ良かった。  天理教では人を助けてわが身助かる と教えているが、 どのように解釈したらよいものか?

 

鍼灸治療

8月9日は はりきゅう の日だそうです。 鍼灸は2000年以上前に中国で発祥しました。 戦っていた兵士に槍が刺さったのですが、致命傷になるどころか患っていた病気が治ったことから始まったという説があります。その後【気】の流れるところを刺激すると病気が治るということが発見されました。人間には【気】というものがあります。目にはみえませんが、【やる気】【気分】【元気】など人間の活動を支えるものです。その気の流れをコントロールするのが鍼治療です。昔の人はよく考えたものですね。

8月7日は 花の日 ということだそうです。 花はなぜ人の心を癒すのか? きれいだから? 他の花と比べっこしないで、一生懸命咲き誇っているから? 理由はわかりませんが、自分も生きているだけで人の心を癒す存在になれればうれしい。

正しく見る

ありのままに見るのが正しい見方
私たちは、物事を見る時に、どうしても、自分の思いが入ってしまいます。
こうありたいという願望や、こっちのほうが好きだという思い、都合や先入観で、物事を見ていることが多いのです。自分では、冷静で客観的なつもりでも、実際は、自己中心的な見方をしていて、周りと見解が食い違っているということもあります。仏教では、曲がった見方を「邪見」(じゃけん)といわれます。
そして、物事をまっすぐありのままに見る努力をしなさいと教えられています。まず、正しく物事を見ることができないと、正しい判断ができないからです。物事をまっすぐ、ありのままに見ることを仏教で、「正見」(しょうけん)といいます。「正見」を教えた話に、こんなエピソードがあります。室町時代のことです。町の中に、くねくね曲がった松がありました。
とんちで有名な一休禅師(いっきゅうぜんじ)と親交が深かった蓮如上人(れんにょしょうにん)が、そのそばを通りかかると、たくさんの人が集まって騒いでいます。
「皆さん、一体何をしているのだね」と尋ねられると、
「ああ、蓮如(れんにょ)さまですか、これを見てください」と言います。松の木の前に立て札があり、こう書かれているではありませんか。
「この松をまっすぐに見た者には、金 一貫文(いっかんもん)を与える。大徳寺・一休」一休禅師のとんち問答だったのです。一貫文とは大金です。人々は、何とか、この松をまっすぐに見て、お金をもらおうとしていたのです。ある者はハシゴをかけて斜めから見たり、ある人は木によじ登って上から見たり……。あの手、この手で挑戦しますが、どうしても、まっすぐには見えません。事情を聞かれた蓮如上人(れんにょしょうにん)は、
「また一休のいたずらか。わしはまっすぐに見たから、一貫文をもらってこよう」と、大徳寺へ向かわれました。
「おい、一休。まっすぐに見たから、一貫文もらうぞ」と言われると、一休さんは、「あんたなら、あかんあかん。立て札の裏を見てこい」と答えます。なんと、立て札の裏には、「本願寺の蓮如は除く」と書いてあったのです。松の木の周りには、まだわいわいと人が集まっています。
「どうやってまっすぐに見られたのですか?」と問いかける人々に、蓮如上人は次のように答えられました。
「曲がった松を、『曲がった松じゃのー』と見るのが、まっすぐな見方なのだ。白い物は白、黒い物は黒と、ありのままに見るのが正しい見方なんだよ」「さすがは蓮如上人」と、人々は感服したといわれています。
天理教の人の中には上級の会長の言うことは白いものでも黒と言われたら黒と思いなさいと言う人がいますが、正しく見て白いものは白と考えたいものです。それが正しい見方です。


治ると助かる

天理教では人を助けることが大切だと教えています。教祖も【ひとをたすけてわが身たすかる】と言っています。助ける、助かるとは何だろうか?病気を治すことが助けることだろうか? それなら治すという表現をするはずですね。助けるというのは心を助けることなのです。【やまいのもとはこころから】

成人とは

天理教でいう成人するとは、一言でいえば、【どんな状況でも幸せを感じられること】これが陽気暮らしであり、成人の姿ではないだろうか。

講とは

みかぐらうたに【どうでもしんじんするならば、こうをむすぼやないかいな】という歌があります。講というのは江戸時代にはやった宗教のグループです。私も先祖代々からの【榛名講】に入っています。群馬県の榛名神社を信仰するグループです。豊作祈願を祈る宗教です、地元にも氏神様があるのになぜわざわざ遠いところの神社に祈願しに行くのか?信仰だけではないのだとわかりました。私の入っている講には隣近所12軒が入っています。そのグループで毎年お金を出しあって、くじに当たった者が三人で代理で参拝するシステムです、翌年は当たった三人を覗いてくじ引きをして参拝する人を決めます。何年かすれば全員が参拝にいける仕組みです。江戸庶民は【大山講】神奈川県の大柳神社、【富士講】山梨県の富士山など、バスや電車のない時代に、徒歩で1週間程度で往復できる観光が楽しみで、講がはやったと言うことです。。また、講の代理参拝(代参)であれば通行手形もすぐ発行してもらえるので、庶民にとっては信仰を兼ねた小旅行と言う楽しみが講を流行させたのです。教祖が、講をむすぼやないかいなと言ったのも、人間に楽しみながらおぢば帰りをしてくださいということも意識していたのではないだろうか?

陽気遊山

おふでさきに、【月日には、人間始めかけたのは、陽気遊山が見たい故から】という歌があります。月日というのは神様です。神様が人間を造られたのは、人間が楽しく遊びも含めて明るく生きているのを見たいということです。 陽気とはにぎやかで明るいさまです。反対語は陰気です。遊山は野や山に出かけて遊ぶことを言います。今でいえばレジャー・観光のことですね。  つまり神様は人間を造ったのは、人間が明るくレジャーを楽しみながら暮らすことを見たいということです。 天理の参拝に行くときに観光旅行をかねてはいけない、遊びではないのだから、おぢば以外には寄ってはいけないという人もありますが、これは神様の意思に反するのではないだろうか?神様は人間が楽しく陽気に暮らすことを見たいのです。中にはこんな緩い信仰では助からないとか脅かす人もいますが、人間は脅かされたり、恐怖感、義務感で信仰をしていたら心の底から陽気に成れるわけがありません。神様はそんなことは望んでいません。

鏡の法則

 

愛のかたち

愛は人それぞれ違う
お母さんタイプは、【愛とは、相手のために尽くすことだ】と、思っている。
長女タイプは、【愛とは、同じ道を共に歩んでいくことだ】と、思っている。
末っ子タイプは、【愛とは、好きな人から受け取るものだ】と、思っている。
お父さんタイプは、【愛とは、相手を苦難から救い、守ることだ】と、思っている。
長男タイプは、【愛とは、相手を優しく見守ることだ】と、思っている。
次男タイプは、【愛とはいたわり、励ましあうことだ】と、思っている。
愛に対す考え方も様々。

あとから気づく

負けて初めて知る【努力の大切さ】
親になって感じる【親のありがたさ】
失って気づく【当たり前のありがたさ】
いつだって本当に大切なことはあとから気づくもの
大切なものを見失うとき、大抵自分のことばかり考えている。

われいまだ木鶏ならず

第35代横綱・双葉山が安芸の海に敗れ、69連勝に終ったとき、昭和の偉大な政治学哲学者・安岡正篤氏に充てた言葉は・・「われ未だ木鶏たりえず」
”木鶏”とは、中國の”荘子”に由来する言葉です。昔中国に紀悄子(きしょうじ)という鶏を育てる名人がいた。王様から、最強の闘鶏に育ててくれとたのまれた。紀悄子に鶏を預けた王様は、10日ほど経過した時、仕上がり具合について下問した・・すると紀悄子は、「まだ空威張りして闘争心があるので、いけません」更に10日ほど経過して、再度王様が下問すると・・「まだいけません・・他の闘鶏の声を聞き、姿を見ただけで、いきり立ってしまいます」と答えた。更に10日経過したが、「目を怒らせて、己の強さを誇示しているから、 話になりません」と答える。更に10日経過して王様が下問すると・・「もう良いでしょう・・他の闘鶏が鳴いても、全く相手 にしません。まるで木鶏(木を彫って造った鶏)のように泰然自若としてい る。その徳の前に、かなう闘鶏はいないでしょう」と答えた。周りの鶏はその姿を見ただけで戦う気力がなくなってしまうほど強い鶏のことを木鶏と表現している。私もそんな人間になりたいものです。

本当に出来た人間

本当に強い犬は吠えません。相手を威嚇して吠える必要がないからです。
本当にできる人は人を馬鹿にしません。自分はまだまだ未熟と思っているから。
本当に自分に自信がある人は怒りません。
本当に出来た人は、自分の価値観を人に押し付けません。自分が全てただしいいと考えないから。
本当に強い人は他人と比べません、昨日の自分と比べ今日の自分が成長しているかを比べる。                     

病気になって思うこと

このところ風邪をこじらせてしまい、体調が思わしくない日が続いている。病気になって初めて健康のありがたさが感じられる。いつも当たり前のことがありがたく感じられるものである。人間関係も同じこと、親がいて当たり前だったのがいなくなって、ありがたさを感じるものです。友達もいなくなってはじめてありがたさを感じるものです。今の当たり前を大切にしたいものです。

信仰と愛情

信仰と愛情は共に心のことであるので、共通している。しかし共に色々な形があるものです。熱心な信者でその熱心さを他の信者にも強要したり、そんないい加減な信仰では助からないとか脅してくる人もいる。本人が一生懸命なので気持ちはわかりますが、自分の形を人に押し付けては関係は長続きしない、助かりたいから一所懸命信仰活動をしていてもご利益がなかったりして長年信仰していた人も、この宗教では助からないとやめていく人も多く見かけます。見返りを求めるからそういうことになるのです。ご利益は毎日の生活の中にあるのです。男女の愛も同じこと、相手に求めすぎては長続きしない。本当の信仰とか愛情は。 ①見返りを求めない   ②一緒にいると安らぎを感じる。(信仰していると心がやすまる)  ③相手の幸せが自分の幸せになる(人を助けてわが身助かる)  ではないだろうか。

神は不思議な力を発揮する?

多くの宗教で神や仏は祈れば不思議な力を発揮して、助けてくれるというように信じられている。もちろんそういうこともありますが、奇跡や不思議なことを起こしてくれるから神を信じるというのは、どうだろうか?ご利益信仰ですね、願ったことが叶わなかったり奇跡が起きなければ神を信じないというのでは、本当の信仰ではない、今ここにこうして人間として生を受けて生きている、心臓や肺も意識しなくても動いてくれている。この当たり前のことが、神が作った自然のプログラムです。このことに感謝するのが本当の信仰ではないだろうか?病気をして初めて当たり前のことがどんなにありがたいことか感じるものです。特別なことがないとうれしくないと思うのは恵まれている証拠です。当たり前のことそれこそ神の奇跡不思議な力です。感謝!感謝!

神を敬う

日本人は多くの人が無宗教と言っていますが、正月や七五三、お酉様など神社にお参りに行きます。人間の力が及ばない大きな何かを信じているのではないだろうか?科学を勉強すると自然の力、自然の仕組みや人体の不思議に気が付く。これは誰がプログラムしたのか?人間の力ではない、宇宙や地球も生きている、絶えず変化しているのです。こんな大自然の仕組みに感謝することが人間として大切なのでないだろうか。



 

母の日

今日は母の日、中山家では全員が集まって、夕食会を開いた。夕食が終わっていつものように年取った母親は家族全員分の汚れた食器を洗い始めた。それを見た息子や娘たちは、彼女のもとに駆け寄り汚れた皿を取り上げた  【お母さんやめてください、今日は母の日ですよ!、洗うのは全部明日に回せばいいじゃないですか!】  これは笑い話ですが、天理教でも人助けという親の手伝いと感謝をしなければならないのに、自分にご利益をくださいとすがり続けている信者がいるのではないだろうか?自分も胸に手を当てて考えよう。

競技スポーツは過程が大切

オリンピックの陸上競技に出ても日本人はなかなか優勝できない。決勝進出も難しい。種目によってははじめから最下位と分かっていても出場する。 競技スポーツはどんな状況でも上を目指して努力し続けることに意味がある。単なる勝ち負けだけを競うなら、じゃんけんが一番早い。じゃんけんで勝っても涙が出るような感動はない

言葉の意味を大切にしたい

教会に、ひのきしん袋 というものが来た。 ひのきしん というのは天理教の専門用語で、神様からお借りしている身体を使って神様の守護に感謝をするための行為です。清掃や奉仕などのことを言っています。自ら進んで行うことが前提です。こんな感謝の行為を献金してくださいというようなことに変えてしまっていいものなのだろうか? そもそも ひのきしんは自発的に行うものです。依頼されてするのもおかしいのではないだろうか?天理教では他にも つくし・運び という言葉があります。 真心を尽くし教会にそして信者宅に足を運ぶということだと理解していますが、今では、献金のことをさしています。 伏せこみ という言葉もあります。農業用語で種をまいて土をかぶせることです。時期が来れば芽が出てきます。天理教では人知れずする人助けの行為をさしていると思うのですが、これも最近は献金を意味しています。 大切な専門用語を全て献金という意味にしていいものだろうか?お供え袋 というものがあります。献金は全てお供えでいいのではないだろうか?言葉の意味を変えることに違和感を感じます。特に ひのきしん という言葉は教祖が造られた言葉です。言葉の意味を大切にしたい。

ピカピカの一年生

入学式も終わって学校へ通学するピカピカの1年生が背中より大きいランドセルをしょっている姿を見るととてもかわいい、希望に満ちてスタートを切っているのだろうと思います。希望と不安もあるでしょうが初々しいですね。70歳を過ぎるとそんな希望をもってのスタートはありませんが、常に前進する気持ちで人生を歩みたいものです。



神棚の鏡

神道では神棚に鏡が飾ってあります。なぜ鏡があるのか? 日本の最高神である【天照大神】を鏡として祭っているそうです。また、鏡は自分自身を写すものです。自分を振り返ることが大切です。テロを繰り返すイスラム過激派の人も、本人は宗教にもとずいた正しい行動と思っているのです。神の解釈を違って信じているのです。宗教は人のこころを助けるものですが、教理を間違えて解釈してしまうと、悪になってしまうこともあります。常に自分は正しいか?世のため人のためになっているか?鏡の中の自分を見つめて考え直したいものです。

 

神とお金

神社やお寺に行くと賽銭箱があります。賽銭は元もとは豊かな自然に感謝し、秋にとれたお米を白い紙に包み おひねり としてお供えしていましたが、貨幣が普及してからは 米 の代わりに金銭をお供えするようになりました。感謝の真心をお金に変えてお供えをするのです。しかし、神様はお金を使いません、買い物に行くこともないし、レストランに食事に行くこともない。神様は賽銭はいらないが、神社やお寺は維持するために必要です。 お供えが少ないと助からないとか、ご利益がないというのは、人間が神社や寺そして神官などの生活費を多くするための方便ではないだろうか?神様はお金で買収できない、心が大切、その心をお供えに変えるのですから、神社やお寺は参拝者の心を救い、感謝する心を熟成しなければならない

神仏習合

昔の日本は、神仏習合の時代があった。お寺の中に神社があったり、 神社の中に仏堂があったりしていた。各地の神社に【神宮寺】が、たてられていた。日本の神道には教えがなかったので喧嘩することもなかったのだろう。私自身も仏教のお寺の檀家であり、天理教の信者でもある。両方とも良い教えであると思っています。

伏せこみ

農業で土を掘って種を植え土をかぶせること、またじゃがいもやサツマイモなどの種イモを埋めることを伏せこむという。鳥などが掘り起こして食べなければ旬が来れば芽が出る。これと同じように人の善行はすぐには表れないが時がたてば、陰徳として幸福が現れる。天理教も教祖が自らの土地屋敷を売り地域の困っている人に施した陰徳があって、その後急速に天理教が広まっていったと思われます。伏せこみはお金(献金)ではありません。

ひのきしん

天理教の教えに【ひのきしん】があります。一般的には、寄進とは社寺などに、金銭、物品を寄付することを言いますが、天理教では神様の御守護に対して身をもって恩返しをすることを言います。誰でも平等に与えららえた時間(日々)日を報恩に捧げることから日の寄進と言われる。親神様のお喜びいただける行為に対してひのきしんといいます。献金をすること自体がひのきしんではありません

変化の風

昨日、ロータリークラブの会合でこんな言葉を聞きまhした【変化の風が吹くとき、防壁を立てる人もいれば、風車を作る人もいる】  改革や変化の時代に壁を作って抵抗する人もいれば、変化の風を利用して力に変えようとする人もいる。人は変化を嫌うものです、しかし時代は確実に変わっているのです。その風を追い風にして自分の成長にしたいものです。

日日是好日

禅の言葉ですが、あまり過去にとらわれたり、未来に必要以上の期待を持ち込まず、現在(いま)を精一杯生きることに努めることの大切さを説いている言葉です。今日はいい日だなとか今日は悪い日だなと感じることがありますが、それは自分が勝手に作り上げた感じ方なのです。本当はどの日も最高のいい日なのです。朝のテレビ番組で占いコーナーがあります、辰年生まれの人は、今日はいい日だとか、悪い日だとか言っていますが、当たったことはない。嫌な占いを聞いてどんよりしてスタートしてはいい一日にならない。その日一日がいい日になるか、悪い日になるかは自分の心次第なのです。自分の経験から言うと、自分にとって悪いことが起きる日もあるが、後から考えるとそのつらい経験が、自分を成長させてくれた良い日であったりするものです。毎日が良い日です。神様は悪い日など作ってはいないのです。

獅子身中の虫

獅子(ライオン)は動物の中で最強であるが、自分の中に寄生する虫に食べられて死ぬことを言う。強大な国家も外敵に滅ぼされることもあるが、多くは内部からの崩壊である。獅子身中の語源は仏教からです。仏教徒でありながら、真の仏教を伝えず自分に都合の良いことに教えをまげてしまうものが仏教を滅ぼすということから来た、宗教はご利益や自分が助かるためには多額の献金が必要などと言っていないだろうか?自分が虫になっていないだろうか?今一度見直したい。

万有引力の発見

リンゴが木から落ちるのを見てニュートンは万有引力を発見した。と言われますが、ニュートン以前にもリンゴが木から落ちるのを見た人は何億人もいるはずである。 ニュートンは万有引力発見以前に物体が引き合うことを考えていた。一生懸命そのことを考えていたから、万有引力を発見できたのです。努力の結果なのです。全ては努力が実を結ぶ

ブログの日

2月6日はブログの日(2と6)でブログとかけあわせたようです。 ブログとは ウェブ上の記録という意味です。 ウェブログ と言って、自分の考え方や社会的な出来事への意見、物事への評価など自分の意見を公開するWebサイトのことです。時々更新して勝手な意見を投稿していますが、何人の方が読んでくれているかはわかりませんが、自分自身の日記帳と思って投稿しています。

雪が解けたら何になる?

ある小学校の先生が、子供たちに【雪が解けたら何になる?】と聞いたら、子供たちは【水になる】と答えました。正解です。 ところがたった一人だけ【春になる】と答え子がいたそうです。その通りですよね、しかし先生はその子にバツをつけたのです。日本では答えは二つあってはいけないのでしょう。この記事が紹介されたときに議論を呼びました。感受性を大切にする教育が必要ですね。

経理に向いている人材

急成長したあるIT企業があった。株も上場できたし、決算準備のため新しい経理社員を雇うことにした。書類選考し優秀な人材が3名残った。1人目の応募者に質問した。【7+9は?】応募者は答えた【16です】 採用担当者は【はいわかりました。結果は追ってお知らせします】  2人目の応募者にも同じ質問をした。【7+9は?】応募者は答えた【16です】 採用担当者は【はいわかりました。結果は追ってお知らせします】  3人目の応募者にも同じ質問がされたが、応募者の答えは違っていた  【いくらにしてほしいんですか?】 採用担当者たちはうなづきあった【君に決定だ!】

節分

もともと節分とは、年に4回訪れる立春・立夏・立秋・立冬の前日を指す言葉。しかしいつしか、一年の始まりであり、大切にされていた「立春」の前日のみを「節分」と呼ぶようになりました。悪いものを追い出し、縁起のよいものを食べて、新しい季節を迎えるための行事です。節分の定番といえば「豆まき」。昔は、病気や災害など悪いものはすべて「鬼」の仕業だと考えられていたため、鬼を退治する効果があるとされる豆を投げてる風習が広まりました。節分には炒った豆を使うのが一般的ですが、その理由は昔話と関係があります。
昔、人を食べる鬼に、神様が「この豆から芽が出たら人間を食べてもいいが、出ないうちに人を食べたら罰を与える」と鬼に豆を渡しました。鬼は神様からもらった豆をまくのですが、待っても待っても芽は出ません。なぜなら、その豆はあらかじめ炒ってあったものであったから......というお話です。
鬼はどこにいるのでしょうか?人間の心の中にいるのではないでしょうか?豆で心の鬼を追い出しましょう。
天理教では悪い心をほこりと言っています。豆まきのように心のほこりを払いたいものです。


校則

日本から招かれて札幌農学校に到着したクラーク博士は、校長から校則を聞かされて、たちまち大声で怒鳴った、【こんなもので人物の教育ができますか!】 第一条これこれ、第二条これこれ・・・・と学生を束縛するような型通りの校則は新しい日本人を教育するために一年間の約束で赴任したクラーク博士にとっては有害無益のものに思えた。クラーク博士は学生を子供扱いにせず大人として扱うべきであると言った。【じゃあどのように校則を変えましょうか?】と校長が聞くと、クラーク博士は【諸君は紳士である!】その一言で十分でしょうといった。札幌農学校からはその後  新渡戸稲造や内村鑑三などの日本を担う人材が育っていった。翌年には【ボーイズビーアンビシャス】青年よ大志を抱け という有名な言葉を残して帰国していった。校則が心を拘束してしまうようなことをしては大きな人物は育たない。それぞれの組織の中にも規則はあるだろうがあまり拘束する規則は若者を委縮させるものである。

コロンブスの卵

コロンブスは航海者、地球が丸いことを信じて、狂者とあざけられながらも、スペイン女王の支援を得て、アメリカ大陸を発見した。コロンブスが新大陸を発見したパーティーが、スペインで開かれたが、その成功を妬み、「大洋を西へ西へと航海して、陸地に出会ったのがそれ程の手柄か?誰でもできることだ」と批判した人々がいました。そんな多くの貴族の人々に対して、コロンブスは食卓の上でゆで卵を立ててみるよう促します。しかし、その場にいる誰もが卵を立たせることはできませんでした。
この時、コロンブスは卵のはしを食卓に打ち付け、殻を崩して食卓の上に難なく卵を立たせます。見ていた人はなんだそんな簡単なことと笑った、コロンブスは、「諸君は誰もできなかった、誰かがした後では、簡単なことですが誰もやらないときにすることが難しいのです」と言った。そこに居合わせた貴族たちは何も返答できなかった。世間の常識を覆すことの難しさと、出来てしまえばたやすいことを教えてくれる話です。

良い知らせ、悪い知らせ

ある晩の夜更けの出来事です。ナポレオンが寝ていると、部下があわただしく戸をたたいた。何事かと跳び起きると部下が言った。【ただいま戦線から通知がありました。わが軍は大勝利です】その報告を聞いたナポレオンはこう言った。【なんだ、勝ったという知らせか。それなら明朝でも良かったのだ、しかし、もしわが軍が負けたという知らせなら、夜中でもよろしい。すぐに知らせてくれ!大急ぎで】  ナポレオンは悪い知らせはすぐ手を打たないと手の打ちようがなくなることを知っていた。 病気も同じである、悪くなっていたらすぐ手を打たないと間に合わないこともある。  しかし人間は、悪い情報は言いたくないものです。特に自分のせいで悪くなったことの報告は後回しにしたいものです。そんな時にも早く報告することが大切ですね。

派閥は悪い?

いま、自民党では派閥解消が問題になっています。【派閥】というと悪いことのように感じてしまいますが、人間は何人か集まれば派閥に近いグループができます。人間は群れで生きる動物です。一人では生きられません。考えの近い人がグループを作るのは自然の成り行きです。子供のころも仲良しグループはありました。自民党も派閥が全て悪いとは思いません。派閥の長がグループの人を締め付けすぎたり、献金などの裏金つくりをするからいけないのです。ここで派閥が解散しても、また新たなグループができることと思います。良い派閥は若手を指導することと勉強をしながら協力しあうことのできるグループですね。

努力は裏切らない

目的に向かって努力をし続けていれば、きっと明るい未来はあるということですが、いくら努力しても達成できない場合は不安になります。 何事も一生懸命取り組むことは大切と分かっていても、成功する人は一握りです。でも努力をすることによって得るものは多いです。成功するには努力も必要だが、正しい努力をしなければならないと思う。ダンスが上達するためには努力は当然必要だが、良い指導者も必要です。その両方があって成果が出るものですね。

宗教の三段階

20世紀の天才科学者アインシュタインは宗教を三段階に分けています。
第1段階は【怖れの宗教】です。原始人が地震や災害・病気など、自分より力のある自然に対して恐れたり、お願いをしたりする宗教です。
第2段階は【倫理的宗教】です。人間として良いことをするのが神の求めることとして、倫理を求める宗教
第3段階は【宇宙的宗教】宇宙の法則によって全てが定まっているtp考える宗教。
また、別の分け方をすると 【怖れの宗教】 【修行系宗教】 【現世利益の宗教】 などに分けられます。
私は天理教は神に【感謝して陽気に暮らす】宗教と考えています。人間は陽気に暮らすために生まれてきたのですから。  アインシュタインは【生きる意味は何か?それにこたえるのが宗教】と言っています。

愛情の反対語

マザーテレサの言った言葉に【愛情の反対語は、憎しみではなく、無関心】です。キング牧師も同じようなことを言っています。令和6年能登半島地震災害にも、関心をもってできることは些細なことでも支援したいものです。

 

 

管をもって天を窺う

【井の中の蛙】という言葉があるが、この言葉も視野の狭さを言い表したものです。昔、扁鵲という名医がある国に行った時のことです。国に到着すると、【いましがた、皇太子がなくなったという】王様の専門医にあって話をきいた扁鵲は、これこれの処方をすると生き返らせることができると専門医に教えてあげたが、信用せず聞き入れない。結局王様からのたっての願いで扁鵲が治療して皇太子は生き返った。この時に扁鵲が言った言葉が【管をもって天を窺う】という言葉。つまりストローで天を見ているようなもので、狭い範囲しか見えないことのたとえ。私たちの視野がd狭くなるのは、大抵自分が所属する組織の中に埋没しているからだ。どんな組織でもそれにどっぷりつかっていると、どうしても視野が狭くなる。そうならないためには、普段から別の組織や異業種の人間と、積極的に付き合う必要がある。

おかげさま

おかげさま、という言葉は漢字で書くと【お陰様】と書きます。木があればその下に陰ができ、この陰があることで雨や暑さをしのぐことができる。このことからありがたいという感謝の気持ちが沸いてくる。また、何かがうまくいったとき、上手くいってるとき、見えない何かの力が働いている、こんな陰の力、また光の当たらないところで働いてくれる人がいるからこそ、美味しい食事もとれる。野菜を作っている人や料理をする人、ものを造ったりサービスをしてくれる人、そんな多くの人に感謝する言葉が【おかげ様】です。世の中がわかると自分一人で生きているのではない多くの人たちがいて自分が生活できるありがたさがわかってくる。

コップの水

【ちょっとウエイター、この水濁っているぞ】
【水は大丈夫です、お客様、汚れているのはコップのほうですから】

株を守る

昔、中国の宋の国のある農民が野良に出て働いていると、目の前に兎が跳んできて、偶然そこにあった切り株に頭をぶつけて死んでしまった。その農民は労せずして兎を手にいれた。
これはもうかった、いいことを知ったと、その日以降スキを放り出して、連日株の前でじっと兎が来るのを待っていたが、いつまでたっても兎はやってこなかった。結局彼は皆の笑いものになった。
【待ちぼうけ、待ちぼうけ、ある日せっせと野良稼ぎ、そこへ兎が跳んで出て、ころり転げた木の根っこ】という北原白秋の歌で知られるエピソードです。
人間は、一度良いことに出会うと、二度、三度と同じことを期待して、融通がきかず、変化に対応できないことのたとえです。伝統や既成概念にとらわれて変化を嫌うものは皆この農民のようなものですね。

為せば成る

上杉鷹山の言葉に【為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり】
という言葉があります。
何事もやればできる。しかしやらなければ何一つできない。
できないのは、ただやらないだけなのだ、他に理由などない。

流れ星に願い事

昔、こども電話相談室 と言うラジオ番組があった。子供たちの質問に電話で先生方が答えるという番組でした。ある女の子が電話で質問してきた。
【流れ星に願い事を言うと叶うって本当ですか?
先生は答えた【本当です!その理由は、流れ星はいつ出てくるかわからないし、出てきてもあっという間に流れ去ってしまいます、何をお願いしようかと考えていると間に合わない。つまり毎日24時間願っていることだけが間に合ってお願いできる。あなたが、例えばオリンピックの選手になりたいと強く思っていれば、毎日練習もするでしょう、毎日オリンピックに出ることを考えて努力を続けるでしょう、そんな気持ちが夢をかなえるのですから、流れ星が突然現れてあっという間に消え去っても、瞬間にその願いを言うことができると思います。毎日思い続けるそんな気持ちが願いを叶えるのですよ】  良い答えだと思いました。私も常に夢をもってそれに向かって努力を続けたい。

愛煙家

愛煙家の男とタバコ嫌いの男が会話している。 
タバコ嫌い【君はよくタバコを吸うけど一日に何本くらい吸うんだ?】
愛煙家【60本くらいかな】  
タバコ嫌い【一本10円とすると毎日600円を煙にしているわけか】 
愛煙家【まあ、そういうことになるね】
タバコ嫌い【それを何年続けているんだね】
愛煙家【ざっと、10年くらいかな】
タバコ嫌い【すると、600円かける3650日だから、200万円以上はタバコに使っている】
愛煙家【確かに、そういうことになるね】
タバコ嫌い【まったくむだな話だ、タバコさえ吸わなけりゃ、あそこにあるような高級車くらい買えただろうに】
愛煙家【確かにそうかもしれないね、しかしあそこにある高級車は私の車だ】

自然災害

正月から能登半島地震が襲いました。日本は地震大国ですから、必ず起きるものです。台風や豪雨による災害が毎年起こっています。人間が勝手なことをしているから神が怒っているなどという人もいますが、これは地球が生きているということなのだと思います。地球の地下にはマグマが対流して大陸プレートを動かしていたり、地球も活動しているのです。地球も生きて活動しているのです。その地球に住まわせてもらっているのですから仕方ありません。大自然の力にはかないませんが、人間同士助け合いをすることはできます。被災者を皆で支援したいものです。

初詣

正月になると日本人の8割近くの人が初詣に行きます。有名な神社やお寺は拝むのに一時間以上並ぶところもあります。でも、そんな人たちも、私は無宗教ですという人がほとんどです。宗教の信者と初詣で神様を拝むのは違うことなのでしょうか?神様を信じているからこそ寒い中を行列に並んでお賽銭をあげてお願い事をするのではないのだろうか?宗教の信者と言えるのはもっと熱心な人のことなのだろう。


一生懸命

鎌倉武士は将軍から与えられた土地を命がけで守ったところから【一所懸命】一つの場所に命を懸けたところから一所懸命が来ていますが、今は一般的に命がけで頑張ることを【一生懸命】という言い方をします。本気で物事をやること、真剣に物事にあたること、命がけですることから転じた言葉です。

空いてる席

ある夫婦が大人気のコンサートを観に行った時のこと。
2人が席に着くと、すぐ後ろの席が一つ空いていることに気が付いた。
そこで妻のほうが、空いている席の隣に座っている老婦人に尋ねた。
【チケットが売り切れるほどの人気なのにどうして席が空いているのですか?】
老婦人は答えた【なくなった主人の席です】
聞いた夫人は、失礼なことを聞いたと謝り、それでも好奇心に勝てなかった。
せっかくの空席にどなたかをお招きにならなかったのですか?
老婦人はあっさりと答えた。【みんな夫のお葬式に行っているんです】

ふるさと納税

住んでいる自治体に納税する税金を生まれ故郷や応援したい自治体に納税すると控除が受けられる制度ですが、東京に一極集中する時代には地方自治体の運営ができなくなりそれを補う制度としてはいいのですが、本来の目的を忘れて返礼品目当てになっているのではないだろうか?自治体も特産品などいろいろ工夫して返礼品を用意する努力はいいことですが、あまりにも競争になっていないだろうか?本来なら自分の生まれ故郷に納税するほうがいいのではないだろうか?

年の瀬はなぜあわただしいのか?

12月は【師走】と言って普段落ち着いている、先生方もあわただしく走り回る様を言っています。なぜか12月後半になるとせわしなくなります。毎月同じような生活をしているのに、気持ちがあわただしくなります。クリスマスや年賀状を書いたり、忘年会が有ったり、行事が立て込んでいるからなのでしょうか?商店や銀行も混雑してきます。正月休みがあるからそのためにやることを先にまとめてやっておく、その間の仕事もやっておくなど、あるからでしょうか?でも盆休み前にはそんなあわただしい気持ちにはならないのはなぜか?新しい年を迎えるという緊張感もあるでしょうね。子供のころは学校も休みに入って逆に暇だったような気がする。

正月はなぜめでたいか?

あと一週間でお正月です。お正月になると多くの人々がお互いに【おめでとう】と挨拶をします。なぜ皆おめでたいのか?これは歳神様を、お迎えするという意味と、昔は正月に皆一歳、歳をとっていたのです【数え年】と言って誕生日以外にお正月に日本人全員が一歳、歳をとっていたのでおめでとうと言っていたのです。歳とりの祝いです。しかしそれ以上に周りの多くの人たちのおかげで年を越せて新しい年を迎えることができたという感謝の気持ちでお互いにおめでとうと言っていたのではないでしょうか?新しい年を無事に迎えられることはありがたいことです。

他力本願

【君が私の娘の夫になるわけだ。それで結婚の日取りは決めたのかね?】
娘の婚約者は答えた
【その件はお嬢様に任せてあります】
父親はさらに質問した。
【それで式は教会で挙げるのかね?それとも神社で挙げるのかね?】
青年は答えた。
【その件は彼女の母親、つまりあなたの奥さんに任せてあります】
父親は最後にもう一つ質問した。
【それで結婚後の生活費は大丈夫なのかね?】
青年はうなずいた。
【その件はあなたにお任せいたします】

陽気暮らし

陽気暮らしとは?酒を飲んで毎日楽しく陽気に暮らすことでしょうか?親しい仲間たちとワイワイガヤガヤして楽しく陽気に暮らすことでしょうか? 天理教の陽気暮らしは、神が作った大自然の(天の理)に守られて人間として暮らすことのできることに感謝し、毎日をありがたく積極的に生きていくことが陽気暮らしではないかと思います。

拝み祈祷

天理教では【たすけでも拝み祈祷でいくでない うかがい立てていくでなけれど】という教えがあります。病気を治すにも単なる拝み祈祷では治らない。【病のもとは心から】というように、原因を治すためには、心を入れ替える必要があるのではないだろうか? 自分は何もせず、お賽銭をたくさん入れて助けてくださいとお願いしても駄目なのではないでしょうか?根本を治さなければ病気は治らない。

ピエロ

患   者:【先生、おいらは何も面白いことがなくて、憂鬱で困っているんですよ。】
精神科医:【サーカスを見に行きなさい。ピエロを見たら笑い転げて、面白いことがないなんて言わなくなりますよ】
患   者:【先生、おいらがそのピエロなんですよ】

当たり前

当たり前という言葉は【当然】という言葉が、【当前】に変化したという説があります。当然というのは誰がどう考えてもそうなっているという意味があります。でもその当たり前がありがたいことと、思わずに普段は生活している。当たり前がなくなってはじめて当たり前のありがたさに気づくものです。常に当たり前をありがたく感じられる心でいたいものです。

天の理

天理教の天は 【絶対的存在】【神】というものを示していると思う。 天理教が始まるときに、教祖に神が【世界一列を助けるために天下った】という言葉があります。 神様が人間である教祖の身体を借りて教えを伝えることを天下ったと表現したのではないだろうか? 理というのは【みちすじ】を意味する言葉です。天理というのは祖神の絶対的みちすじであると考える。天地自然が神のみちすじであろう。

授業参観

先生:【虫は1匹2匹、鳥は1羽2羽と数えますが、馬はどう数えるのでしょうか?】
息子:【1着・2着】
父親はそれ以来、息子を競馬に連れていかなくなった。

いい加減

いい加減はもともとは【ちょうどよい状態・良い加減】をあらわした言葉であったと思います。一般的には、無責任で、でたらめなことを言いますが。いい加減には、駄目ないい加減と、良いいい加減があるのではないかと思います。全てをきっちりしようとすれば、気が疲れてしまいます。物事を始める時にもいい加減ではじめて修正しながら完成させていく方法もあります。プラスイメージのいい加減で適当にやっていくのが良いのかもしれません。たまにはこんな考え方をしてスタートしましょう。

眼鏡

患 者:【先生、眼鏡が出来たら字が読めるようになりますか?】
眼科医:【もちろん!はっきり読めるようになりますよ】
患 者:【そりゃよかった。おいらいままでまるっきり読み書きが出来なかったもんだから】

正念場

正念とは仏教用語ですが、【ただしい心】が必要な場面を言う。歌舞伎などで主人公が役柄のもっとも重要な場面で真髄を見せる部分も正念場という。一番重要な場面を正念場という。宗教界も世界中の紛争などをなくし、人類が生き残るために今が正念場ではないだろうか。

簡単な手術

病院の理事が患者に尋ねた。
理事:【なぜ手術室から逃げたのかな?お話しいただけますか?】
患者:【なぜって・・・看護婦が盲腸の手術はとても簡単だからって言い聞かせていたんです】
理事:【それはあなたを安心させるためですよ】
患者:【看護婦は医師に向かって言ってたんですよ!】

お清め塩

葬儀に出るたびに感じるのだが【お清め塩】は必要なのだろうか? 死ということは嫌なことですが、人間は生まれた以上必ず死ぬものです。葬儀に出て汚らわしさを清める意味で 会葬お礼には必ずお清め塩が付いている、【生まれる】ここと【死ぬこと】は一対です。死ぬことが汚らわしいと考えるのは迷信ではないだろうか?もし,

私が死んだ人間として、自分の葬儀を見つめていたら、【あの人もお別れに来てくれた、あまり付き合いのなかったあの人もお別れに来てくれた】と喜んでいるうちに、葬儀の帰りに汚らわしいと言って塩を蒔かれたらいい気持ちがしない。自分は汚らわしい存在になってしまったと悲しむと思います。皆同じ思いをするのではないだろうか? 私は最近何年も、葬儀の後も塩を使わないが、悪いことは起きていない。

マザーテレサの言葉

思考に気をつけなさい
  それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい
  それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい
  それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい
  それはいつか運命になるから

洗濯

主婦:【ひどいわ!お宅で買った洗剤を使ったら、子供のセーターが、こんなに縮んじゃったわよ、着られなくなっちゃたじゃない!】
店長:【それでは、お子さんをその洗剤で洗ってみたら縮んで着られるようになるかもしれませんよ!】


凝縮する

日本人は世界で一番凝縮する能力のある民族ではないだろうか? スポーツの世界では【相撲】短い取り組みだと数秒で終わってしまうものもある。長くても4分過ぎると水入りになる。 こんな短い時間のスポーツは世界でも珍しいのではないだろうか? また、文学の世界でも【俳句】は5・7・5の17文字で一つの作品です。これも世界では珍しいのではないだろうか? 訓練した、技や力・能力を凝縮して発揮する力が日本人は長けているように思う。 天理教のお話も長いだけでは聞いたことを忘れる。何を言いたいか、ポイントを絞って短い時間で凝縮して話すことも必要ですね。精進しなきゃ。

徐行

先生:【君はどうして毎日遅刻するの?】
生徒:【学校近くの交差点に書いてあるんだよ!(近くに学校あり徐行せよ)って】

馬を水辺に

イギリスのことわざに【馬を水辺に連れていくことは出来ても、水を飲ませることはできない】というものがあります。水のある所までは連れていけるが、馬が水を飲むかどうかは馬次第。 人に対して機会を与えてあげることはできるが、それを実行するかは本人の気持ち次第です。 人間もそうですね、例えば子供に対して【勉強しなさい】と言って教材を与えても本人にその気がなければまったく効果がありません。自分も高校まではそうでした、社会に出てから勉強しなければと思ってはじめました。無理強いしても駄目ですね。やる気を出してもらうのは難しいことです。 

小さすぎるシャツ

ある男が占い師に言った。
「恐ろしく頭が痛く、息が詰まりそうで、気分が悪いのです」
占い師は言った。
「お気の毒ですが、あなたはあと3ヶ月しか生きられません」
がっかりした男は、どうせならあと3ヶ月思いっきり豪遊してやれと思い、
会社を辞め、貯金を全部引き出して、新車と、ヨットと、
新しい背広を10着と、新しい靴を20足買った。
次にオーダーメイドのシャツを作る為に、仕立て屋に行った。
仕立て屋は男の首周りを測り、サイズ16とメモした。
男は言った。
「ちょっとまってくれ、僕は最近14のサイズのを着てるんだ」
仕立て屋は言った「そんなサイズのシャツを着ていたら」
「恐ろしい頭痛がして、息が詰まりそうになって、気分が悪くなりますよ」

虎と剣豪と和尚

時は江戸時代の或る日、朝鮮国より虎が贈られてきた。徳川家光は諸大名を集め虎を見物させることとした。身の丈2m余ある虎の凄さに諸大名は目を見張った。
「ところで…」と家光。「…誰か、この檻に入ってみる者はおらぬか」と目線を大名達に注いでいった。大名達は目が合わないように皆、下を向いている。「但馬、どうじゃ」。「ハッ、かしこまりました」と剣豪と言われた柳生但馬守は檻の方へ歩み出、刀を新陰流に構え、虎を睨みつけた。虎も牙をむいて但馬守を凝視する。「よし、開けよ」。但馬守は檻に入り、一寸の隙も見せず虎と対峙し、じりじりと追い詰める。虎は後ずさりをし乍ら、但馬守を凝視するが襲いかかれない。
家光は「もう、よい」と言った。但馬守は頷き、真剣を構えたまま後ずさりし檻の入口まできて「開けよ」といい、外へ出た。そして、フーッと一息くれて家光に礼をし席へ着いた。顔面、油汗が沸き出ていた。大名達は「流石は但馬殿じゃ」と感心しきりであった。
「…ところで沢庵どうじゃ」と家光は悪戯っぽい顔を沢庵和尚に向けた。沢庵は「かしこまりました」と言い残して檻の前に進み出「開けよ」と促した。大名達は法衣だけの沢庵に同情した。家光も「もう良い」と声をかけようとした。しかし、もう沢庵は檻の中に入っている。ところが虎は襲いかかるどころか、沢庵に甘え始め、あげくの果てにゴロゴロといびきをかきながら眠り始めた。家光は負けたと悟った。「もう良い」。沢庵は旧知の友と別れるように虎の頭を撫で「また来るぞ」と言い残して檻を出た。
武力で制するのはお互いに、つらいものです。沢庵和尚のように心で制することが一番である。世界中から悲惨な戦争がなくなることを祈る。

超我の奉仕

私の所属するロータリークラブでは ロータリー会員の人生哲学は【超我の奉仕】と言っています。超我の奉仕とは何か?難しいですが、私自身は 【自己犠牲で奉仕するのではなく、自分も幸せでさらに他の人にも幸せを分け与える奉仕】だと思っています。そのためには精神的にも、経済的にも余裕がなくては出来ません。自分のことは十分やっていて、さらに他人にも手を差し伸べることができるようになりたいものです。

宗教とボランティア

12月5日 今日はボランティアの日です阪神大震災や東日本大震災以降日本もボランティア活動が活発になっています。子ども食堂などもボランティア団体が行っています。 見返りを求めない社会奉仕活動です。 天理教にも【災害救援ひのきしん隊】があります、被災地に迷惑をかけない【自己完結型】です。自衛隊以外では珍しい災害救援組織です。世のため人のために見返りを求めないのが、真の人助けではないだろうか。 宗教は自分が助かりたいから信仰している人が多いが、一般のボランティアに学ぶところもたくさんありますね。

ホームレス

太郎:【おまえ、家が火事で燃えたんだって】
    【大丈夫かよ!】 
次郎:【大丈夫だよ、また段ボールもらってくるから】
 

ストック型ビジネス

ビジネスにはストック型ビジネスと、フロー型ビジネスがあります。ストック型とは、積み上げた資産により毎月安定した収入が入ってくるビジネスです。例えばビルの賃貸業などです、ビルを建てるのは大変ですが、後は賃貸で決まった家賃が見込まれるようなビジネスです。フロー型ビジネスとは製造業のように毎日毎日物を造って売らないと収入がなくなってしまうビジネスです。毎日が勝負です。気を緩める暇がありません。その点 ストック型は安定していいと思われますが、しかし常に顧客の動向に気を使い改革していかなければならないのです。短期的には安定していますが、長い目で将来を考えて手を打たないといけないのです。古くなったビル、インターネットなどの環境がないビルはやがて入らなくなってしまいます。また、新しい借主の確保もしなければなりません。すぐにビルを建て替えられるわけではないので常に将来に備えなければなりません。  天理教の教会もビジネスではありませんが、ストック型と言えます。 今は安定していても、古い信者だけでは将来がありません、新しい信者も増やしていかなければ教会が成り立ちません。古い慣習を打ち破っていく勇気と行動が必要です。

おかげ様

「おかげさま」とは「ひとの親切に対して感謝の気持ちを表すことば」「ひとから受けた力添えや恵みから、その人を敬っていう語」 おかげさまは、古くから「陰」は神仏などの偉大なものの陰で、その庇護(ひご)を受ける意味として使われている。人は皆多くの人が助け合って生きているのです。自分の力だけで生きているのではないのです。米を作る人、電気を作る人、スーパーで物を売る人、みんなのおかげで生きているのです。

歯医者

歯医者:【痛かったら言ってくださいね!】
患 者:【先生!いっ痛いです!】
歯医者:【我慢しなさい!】

陽気ぐらし

自分中心の心づかいや行いは慎み、他の人々を勇ませてこそ本当の陽気です。異なる個性を持つお互いが、互いの良いところを伸ばしあい、足りないところをたすけたり、たすけられたりしながら、共に生きることが陽気ぐらしの姿であり、それが私たちの生きる目的なのです。

運がいいと思う人

松下電器(現パナソニック)の松下幸之助は社員を採用する面接である質問をしその質問で採用を決めていた。その質問とは【君は運がいいか?】という質問です。【ハイ】と言えば採用したそうです。そんな社員がいたから世界一の電機メーカー担ったのだと思います。【自分は運がいいんだと確信していれば、どんなことも受け入れて立ち向かう勇気と力が生まれてくる。人から見れば決して運がいいと思えない状態であっても自分は運がいいんだと思える前向きな心が運命を好転するそうです】

松下電器は人を作る会社

私が経営者として尊敬する人は松下幸之助です。経営の神様と言われます。そんな松下幸之助はある日、天理教の信者に誘われ天理教本部を見て感激したそうです。それはひのきしんという天理教の無償奉仕の姿を見て、感激したそうです、自分の会社は給料を払って働いもらっているのに不満を言う人がいる。天理教の人は無償で働いているのに、感謝しながら喜んで働いている。それを見て社員が喜んで働ける会社つくりを目指したそうです。そして松下幸之助は【わが社は電気製品を作る会社ではなく人を作る会社】と言っていたそうです。

ひのきしん

【ひのきしん】とは、神恩報謝(しんおんほうしゃ)の思いの発露(はつろ)による一人ひとりの信仰実践で、その姿は千種万態せんしゅばんたいです。神様からの借り物である身体を使って教会での御用だけでなく、広く職場や地域社会で人の役に立つ奉仕活動など、国々所々で信者の方々がさまざまなひのきしん活動に取り組んでいます。

そ・わ・かの法則

【そわか】とは【掃除・笑い・感謝】のことです。 お金と仕事の問題は【掃除】をしていれば、なくなってしまう。身体と健康の問題は【笑って】いればなくなってしまう。 人間関係については、【感謝】してありがとうと言っていればいい。  この三つを同時にやっていればいい人生を歩める

70周年

当教会 武蔵府中分教会が法人登記(昭和28年3月19日)してから今年でちょうど70年です。周年行事はおこないませんが、70周年を迎えた心構えとして ①70年にわたり当教会を支えていただいた皆様に深く感謝をしたい。  ②これまでの歴史を振り返り、新たな時代にどのように対応してゆくかをじっくり考えて行動してゆく。   この2つを肝に銘じて毎日の活動を進めて行きたいと思います。

世界一短い手紙

たった一文字の手紙を書いたのは『レ・ミゼラブル』の著者として有名なヴィクトル・ユーゴー。
1862年に『レ・ミゼラブル』を出版した彼は、疲れを癒やすためか海外旅行へと旅立ちます。しかし一流の小説家といえども本の売れ行きは気になるもの。海外から出版社に宛てて彼は手紙を送るのでした。
出版社に届いた手紙を開いてみると、便箋の真ん中に「?」とだけ書かれていました。ユーゴーの伝えたかったことを瞬時に読み取った出版社は、同じく便箋の真ん中に「!」とだけ書いて返信をしたのです。
たった一文字の中に、「本の売れ行きはどうだい?」「順調に売れています!」といった会話がなされていたのです。同じ目標を持った人の間柄だからこそ、相手の気持ちがわかったのでしょう。

お父さん

電話:【リリーンー・リリ―ンー】
女の子:【はい、もしもし~】
営業マン:【こちら、毎日保険なんですけど~、お父さんいるかな?】
女の子:【いらない!】  ガチャ!

貸しもの借り物

天理教では、自分の身体は神様からの借り物という教えがあります。自分の心臓も自分の意思で動かしているわけではない、胃袋も食べれば自然に動いて食べたものを消化して栄養に変えている。手や足も自由に動かせると思っていても、病気になって動かせないときもあります。背が高くなりたい、美人になりたいと思っても自分のものではない借り物なのでどうしようもありません。また、女に生まれたかったと思っても男に生まれてきたのも仕方ありません。自分のものなら自由に出来たのに・・・。しかしお借りしたものをありがたく使うことが大切です。借りたものに対して不平不満を言っていたら、【それならすぐ返して】と言われ命がなくなります。身体は借り物ですが心だけは自分のものです。  与えていただいたものに感謝して使わせていただきましょう。ありがたく使わせてもらえば、貸した神も喜んでくれると思います。感謝していれば、死ぬような大きな病気も治してくれて、もっと使ってくれと言われることもあります。

高齢者医療

評判のいい整形外科病院に高齢者が多く来ていた、その中に元気な楽しいおばあちゃんがいた、おばあちゃんは毎日病院に来ていた、みんなもおばあちゃんが来るのを楽しみにしていた。しかしある日から一週間来なかった。一週間後に現れたので、みんなが【どうしたの?】と聞いた。おばあちゃんは【ちょっと身体の具合が悪かったので家で休んでいたのよ】  
病院は具合が悪い時に来るものか?社交場か?

北風と太陽

ある日、北風と太陽が言い争いをしていました。議題は、「どちらが強いのか」ということ。ただ話だけでは埒が明かないので、力比べの勝負をすることにしました。
ルールは、「道を歩いている旅人の上着を脱がせたほうが勝ち」という簡単なものです。
まず北風は、力いっぱい冷たい風を吹いて上着を吹き飛ばそうとします。しかし旅人は寒さにぶるぶると震え、上着をしっかりと押さえてしまい、脱がせることはできませんでした。
次に太陽が、さんさんと光を照らします。最初は優しいあたたかさで旅人を包んでいましたが、だんだん日差しを強くしていくと、旅人はあまりの暑さに上着を脱いでしまうのでした。
こうして、勝負は太陽の勝ちとなります。手っ取り早く乱暴な手段をとった北風よりも、ゆっくりと気長に着実な方法を選んだ太陽のほうが強かったというわけです。私は北風か?太陽か?  ロシアのように力ずくでもうまくいかないことが多い。

北風と太陽(パート2)

実は「北風と太陽」の物語には、「北風が勝つ」パターンのストーリーもあるのをご存知でしょうか。
先述したあらすじでは「旅人の上着を脱がせたほうが勝ち」という勝負をしていましたが、実は彼らはこの勝負をする前に「旅人の帽子を脱がせたほうが勝ち」という勝負もしていたのです。つまりこの対決は、二番勝負だったということですね。
「帽子を脱がせる」勝負では、まず太陽が旅人を強い日差しで照らします。しかしあまりの日差しの強さに、旅人はいっそう深く帽子を被り、脱がせることはできませんでした。
続いて北風の出番です。旅人に向かって強い風を吹いたところ、帽子を飛ばすことに成功しました。
ということは、北風と太陽は1勝1敗。勝負は引き分けだったのです。
時と場合により力ずくですることも必要な場合もあります。優しさだけがいいわけではなく時には厳しさも必要です。

なぞなぞ

国会と幼稚園の違いは?
答え: 国会は全員が先生で皆かってなことを言い、誰も相手の言うことを聞かない。
幼稚園は一人の先生の言うことをみんなが聞く。

助かると治る

天理教はひとだすけの宗教です。たすかるとはなにか?心がたすかる?命が助かる?病気が治るのが助かる?  お筆先に 【とのよふなむつかしくなるやまいでもつとめいちじょでみなたすかるで】  【どのよふなむつかしくなるやまいでもこれなをらんとゆうでないぞや】   やまいがたすかるという表現とやまいがなおるという表現があります。助かると治る 同じようで違うのかもしれない。命が助かるという言い方は多いが、命が治るとは言わない

祈ると願う

祈ると願うは共に神様にお願いをするという意味ですが、私の感じるイメージは、【願う】は自分の願望をかなえるため、【祈る】は自分以外の人も含めた幸せを願うことのように感じる。【祈願】というように祈って願うがいいのかも?【世界の平和を祈る】というように、神様にお願いするときは、自分だけの願望を超えた人助けの願いでありたい。

宗教法人とは

文化庁によると、宗教法人とは【教義をひろめ、儀式行事を行い、信者を教化育成することを主たる目的とする団体】となっています。この文面を読むと教団が信者に頭から押し付けるような感覚を覚えます。もっと信者の心を救うとか世のため人のために活動する団体というような文面がほしいような気がします。

滑走路

ポーランド航空のパイロットがパニックに陥って管制塔に連絡した。
【アー、もしもし!!おたくの飛行場の滑走路が短すぎて着陸できません!】
【なんで、長さが100メートルしかないんですか?幅は何キロもあるというのに!!】

新嘗祭

11月23日は現在では勤労感謝の日ですが、昔は新嘗祭と言って、その年の収穫に感謝して天皇陛下が新穀を神様にお供えして、天皇自らも、一緒にお召し上がりになる行事です。食べるものに毎日感謝しなければなりませんね!!
11月23日は語呂合わせで【いい文のひ】いいふみ(1123)の日でもあります。手紙を書く機会は少なくなりましたので、ブログでいい文章を書きたいと思っていますが、難しいことですね。

立場上許されない恋

A「なあ。きみは患者に恋したことがあるか」
B「ああ。医者だって恋はする。たまたま相手が患者だったというだけさ」
A「・・・そうか。そうだよな。患者に恋したっていいんだよな」
B「なんだよ、もしかしてお前」
A「うん・・・。立場上、許されない恋かと悩んだこともあったけど、お前の話を聞いて安心した。
 患者に恋するのはいけないことじゃない。恋はすばらしい。恋の炎は誰にも消せやしない」
B「でも、お前は獣医だろ」

雅楽と祭儀式

天理教はなぜ雅楽を演奏するのか?祭儀式をするのか? これは天理教が始まったころ、日本は幕末であった、明治維新後は欧米列強の植民地にならないためにも富国強兵策がとられた、明治政府は天皇を神様として日本国民をまとめることに力を入れた、そんな時に天理教という別の神様が現れては都合が悪いので、天理教を弾圧した。天理教も生き残るためやむを得ず日本古来の神道の形式を受け入れて認めてもらった経緯がある。今は天皇も神ではなく国民の象徴という存在になって、宗教の自由は保証されているが、もともとの形には戻らず、今の形が継続されている。何かの機会に本来のもとの形に戻さないと教祖は嘆いているのではないだろうか?

イエスマン

社長の言うことに対して自分の意見を言わず、全てイエスという人をイエスマンと言う。そんな人にあなたはイエスマンですか?と聞いたら、【いいえ私はイエスマンではありません!社長がノーと言った時には、私もノーと言います。】

酒と宗教

『酒に酔うとは』アルコールが血中にまわることで意識が昂揚し、平常時とは異なる精神状態になることを指します。このような酒の作用や、腐敗を抑制する酒精の特徴から、古代の人々はお酒を「不思議な飲み物」と捉えていたことでしょう。日本においても私たちの祖先はこの不思議な飲み物である「お酒」を「清らかなもの」、「神様の領域に近付けるもの」と捉えていたようです。大和時代(538年)には日本に仏教が伝来しますが、それ以前より神様にお願いをし、教えを聞く「神事」が暮らしの中に浸透し、その場面には必ず「御神酒」が存在しました。 神様とのコミュニケーションである神事。この神事を構成する行事の最後には必ず直会(なおらい)があり、神様に捧げた「御神酒」と「神饌(しんせん)物」を参加者一同で頂きます。神様が召し上がったものを人間が食べることによりその霊力を分けて頂くのです。コロナ禍で、直会がなくなったのは寂しいものです。

秘密

心配しないで、私は口が堅いから秘密を守るから。秘密を漏らすのはいつも私が教えてやった人たちなのよ

松竹梅の法則

人は値段の違う3つの商品があった場合、真ん中を選ぶ。  松竹梅3段階に別れている商品を買うときには、大抵の人は真ん中の価格の商品を買うことが多い。(極端の回避性がある)  例えば、宴会の幹事をたのまれた場合でこのコース料理がいいと思ったら、3つの選択肢でアンケートをとる。一つは極端に安いコース料理、二つ目はちょうど音ごろ価格のコース。三つ目は極端に値段の高いコースを選んでもらうと、アンケート結果は二番目のお手頃コースの支持が多いので、幹事も全員の同意を得やすいものです。

禁煙

禁煙は素晴らしい。
禁煙すると全てのものが美味しくなる。
ご飯がおいしくなる。
デザートが美味しくなる。
水がおいしくなる。
空気も美味しくなる。
何よりタバコがおいしくなる。

ブロークンウインド理論

割れた窓理論とは、ブロークンウインドウ理論ともいい、小さな不正を徹底的に正すことで、大きな不正を防ぐことができるという環境犯罪学の理論です。
割れた窓を放置していると他の窓も割られやすくなり、割れた窓を放置せずに修理しておけば、次に窓が破られることはない。ゴミだらけのところにはゴミが捨てられやすく、ホコリひとつなくきれいに維持されている場所を汚すのは気が引ける。
このような心理を利用することで、犯罪や風紀の乱れを早い段階で抑止できる、という理論です。この割れ窓理論を利用して、犯罪件数を大幅に下げることに成功した都市の例もあります。
割れ窓理論とニューヨーク市・ジュリアーニ市長の例
ニューヨークは非常に治安の悪い街でしたが、この治安対策としてジュリアーニ市長は割れ窓理論を利用しました。まずは地下鉄の落書きをひとつひとつ消していったのです。
さらに地下鉄内において多発していた無賃乗車の取り締まりにも取り組みました。しらみつぶしのように、ひとつずつひとつずつ、小さな不正を正していくにつれて、次第に地下鉄内における犯罪が大幅に減少したのです。そして次第にニューヨークにおいて発生していた凶悪犯罪の件数自体も減少しました。
割れ窓理論とディズニーランドの例
ディズニーランドでも割れ窓理論は利用されています。施設内において修繕箇所などが見つかった場合、その箇所をすぐに修繕します。従業員のサービス品質向上に限ったことではなく、来園客のマナーそのものを向上させることができたと言われています。会社でも同じです。私はの仕事は会社の環境整備です。毎朝ゴミをかたずけ掃除をするのが仕事です。天理教教会も同じなのではないだろうか、古く汚れたポスターがいつまでも貼ってないか?環境整備が大切です。

居眠り

【一郎のやつ、昨日教会で牧師の説教中にいびかいていたの知ってるかい?失礼だよね】
【ああ、説教中にいびきはいけないね、それがうるさくて俺は目が覚めてしまったよ】

一期一会(いちごいちえ)

一期一会とは、「一生に一度だけの機会」という意味の言葉です。一期は「生まれてから亡くなるまでの間」を意味し、一会は「一度の出会い」を表しています。
そのため、初めて会った人や何度か会っている人に対して、この出会いは一生に一度きりの大切なものという意味で使われます。毎日あっている人でも、明日は合えないかもしれない明日の命の保証はない。今をこの出会いを大切にしたいものです。

運命

命を運ぶと書いて運命、その運ぶ運転手は自分自身

こども食堂

当教会が、子供食堂をはじめて、12月2日が3回目になります。10月の一回目が12名の参加 11月の2回目が23名の参加、そして12月2日の申し込みはすでに定員の30名を超えてしまいました。スペースはあるので定員は増やせばいいのでありがたいことです。

社会福祉法人と宗教法人

府中市には府中市社会福祉協議会という任意団体があります。社会福祉法人ですので、優遇処置があります。同じく宗教法人にも優遇処置があります。社会福祉法人は障害のあるかたや困窮者の生活を支援する団体です。宗教法人は心の支援をする団体だと思います。 先日社会福祉協議会の60周年式典に参加いたしました。会長さんはじめ皆さんとても腰の低い人ばかりです。参加者全員に頭を下げて挨拶していました。みんなの寄付やボランティアで成り立っている団体ですから当然かもしれません。天理教も同じように信者の献金やひのきしんで成り立っている組織です。見習わなくてはならないと感じました。

老人ホームの会話

老人ホームで2人の年寄りがベンチに座っていた。
一人がもう一人に話しかけた。
【おい、わしはもう83歳だ。体中ボロボロだよ。あっちこっち痛くてな、あんたは同い年だったな。あんたはどうだい?】
【わしかい?まるで生まれたての、赤ん坊のような感じだね。】
【本当かい?赤ん坊のよう?】
【そうだとも。髪の毛は薄いし、歯は無い。今ちょうどウンチちびったみたいだ】

開かれた教会

神社やお寺さんは通りがかりの人がいつでも参拝できます。賽銭箱も外においてあり、気楽に参拝ができるものです。それにひきかえて天理教の教会やキリスト教の教会は建物のドアを開けて中に入らないと参拝できません。修養をする場所ということもあるのでしょうが、もっと気楽に神様に接することはできないものだろうか?子ども食堂を手始めにもっと一般の人に開かれた教会にしたいと思っています。天理教本部の神殿はいつでも自由に参拝出来、開かれた雰囲気ですが、一般の教会は個人宅というところが多いので難しいですね。なんとか工夫したいものです。

メラビアンの法則

アメリカの心理学者 アルバート・メラビアンの法則とはコミュニケーションを図るときに相手に与える影響は、 言語情報が7%  聴覚情報が38%  視覚情報が55% というものです。  話の内容が同じでも、原稿を読んで棒読みの状態よりも、原稿を読まずに聴衆に向かってジェスチャーなどを使って、声も抑揚を使って相手の目を見て話しかけるほうが効果があるというものです。天理教のお話をするときも、声のトーンや相手を見て訴えるように話すことは大切ですね。落語家などの話し方が参考になりますね。

魚の効能

アメリカ人が日本人の魚屋の主人に聞いた。【日本人は頭がいいと言うが、一体どうしてなのだろう?何か秘訣でもあるのかい?】  【簡単ですよ。魚を毎日食べるんです。】  【なるほど。では、明日から毎日買いに来るからな】  10日後、先日のアメリカ人が機嫌悪そうにやってきた。  【お前に言われて毎日魚を食べているが、一向に頭が良くなった気がしない。ひょっとして俺をだましたんじゃないのか?】  魚屋はにっこり笑ってこう言った。  【ほらみなさい。10日前よりものがわかるようになったじゃないですか?私がだましたのがわかるようになったのだから、頭が良くなっていますよ】

ジャネーの法則

【生涯のある時期における時間の長さは年齢の逆数に比例する】という法則。 一日や一年と言った時間は何歳になってもその長さ自体が変わるものではありませんが、歳と共に一日、一年が早く感じられるというものです。この法則は心理的に感じる時間の長さは年齢によって異なり、5歳の1年は50歳の10年に相当するという法則です。 しかし、いくつになっても好奇心や新しいことにチャレンジすれば若くいられて一年が長く感じられるのではないだろうか?  今年もあと一か月半です。時間は有効に使っていきたいものです。

スープ

客「おい、ウエイター。ちょっと来いや」
ウエイター「何です、旦那?」
客「これを見ろ。俺の頼んだスープでハエが泳いでるぜ」
ウエイター「えっ?お嫌いですか??」

実ほど、頭を垂れる稲穂かな

稲は成長して実が付けば付くほど、その重みで頭の部分が垂れ下がってくるものです。人間も学問や徳が深まるほど謙虚になるものです。小人物ほど尊大にふるまうものです。
スポーツなども同じです、極めるほど自分の未熟さがわかるものです。得意になっているうちはまだ上達していない証拠です。 坂を上がるときには、前かがみになって上ります、坂を下るときにはそっくりかえって下ります。態度がそっくりかえって威張っている人は、下り坂の人生を歩んでいるのだろう。自分も毎日精進し続けなくては!

 

登校拒否

【一郎、もう起きる時間よ】
【僕、起きたくないよ】
【学校に行かなきゃダメでしょ!】
【行きたくないよ!だって先生達は僕を嫌っているし、他の生徒たちからはからかわれるし・・・・】
【それでも、必ず 行きなさい!】
【なんで必ず行かないとだめなの?】
【だって、あなたは学校長でしょ!】

運がいい人も、運が悪い人もいない。
運がいいと思う人と、運が悪いと思う人がいるだけだ。
ー中谷彰宏ー

社長室の法則

ジャーディン・フレミング投資顧問会社が日本で発見した法則の中に【社長室の法則】というのがあります。【社長室の豪華さとその会社の成長率は反比例する】というものです。 社長室に豪華な調度品や絵画など飾ってあるところは成長が止まってピークを過ぎている会社なので投資はしないようにということです。同じくお土産の法則というのもあり、帰りにお土産を持たせる会社も危ない会社という評価です。常に謙虚でなければ組織は成長しない。お金を使うにはもっと本質的なことに使わなければならない。宗教団体もも同じだと思います。

長電話

妻は30分の長話を終えて、電話を切った。
夫:【えらいい早かったなあ、いつもは最低2時間以上しゃべるのに】と言った。
妻:【友達とはね。今のは間違い電話だったのよ】と言った。

南門(黒門)

以前あった黒門が取り壊されてしばらく経ちましたが、何か寂しい気がいたします。老朽化なので仕方ないと思います。新しく立て返す様子はないようですが、計画中かな? 一般の神社は鳥居がありますが、天理教は鳥居がありませんので神社色をなくす方向かも?また四方正面鏡屋敷ということから、南側が正面という形になってもいけないという考えなのでしょうか? シンボルがなくなると寂しいものですね。

 

御供

小さな神の袋に包まれた、ご洗米を信者は【御供さん】と呼んでいます。天理教本部からお与えいただきます。最初は、はったい粉、次に金平糖、現在はご洗米です。病気などの時に、普段の食事に数粒混ぜて食べたものです、これが不思議と効果があり、少しの不調は治るものです。

 

医療モール

最近、医療モールが多くなっています。テナントで個人の開業医を集めて、ビルの中に各種医院に入ってもらうものです。利点としては調剤薬局も一緒に入っていたりするので、すぐ薬がもらえる。CTやMRIなどの個人医では導入できない高額な医療機器も共有出来て便利、駐車場なども共有できる。歯医者や整形外科など一か所で済んでしまうので患者も便利です。  これを宗教団体に応用できるか?キリスト教の教会や仏教寺院、イスラム教のモスク、神社など一か所にまとめて参拝する施設は無理かな?利点もないし、信者も掛け持ちは少ない。これは無理ですね。

天理教とかけて

整いました!

天理教とかけて、テイクアウトの食品ととく、その心は 陽気(容器)が大切です。

天理教とかけて、ペンだけ持ってて、ノートがない時ととく、(紙)のありがたさがわかる。

ねずっち みたいに上手くできませんね。

つとめる

つとめるは漢字で書くと【務める】 【勤める】 【努める】 があります。
【務める】は担うや担当するというときに使います。
【勤める】は一般的に会社にやとわれて働くときに使います。
【努める】は努力や取り組みに使います。
天理教の おつとめ は勤めると言われますが、
務める、努める意味もあるのではないだろうか。

ドリームマップ

1953年、エール大学卒業生全員に、あるアンケート調査が実施された。
1、あなたは夢(目標)を設定していますか。
2,その夢を書き留めていますか。
3,夢を達成するための計画はありますか。
3つともYESと答えた学生は全体の3%でした。
20年後に追跡調査が行われた、その3%の生徒は、1953年の卒業生の総資産の95%を保有していた。
夢を描くこと、その夢に向かって計画することは大切ですね。
武蔵府中分教会どんな夢を描こうか?

先生と生徒

生徒:先生、何もしていないのに僕を叱るってことあるの?

教師:そんな理不尽なことで怒ったりするわけないでしょ。

生徒:よかったあ。先生、僕 宿題していません。

言霊

日本では昔から言葉に魂が宿り、発した言葉通りの結果があると考えられています。
ポジティブな言葉を繰り返し発することで、願望を現実に導いていきます。
オリンピックで金メダルをとる人は多くが自分は世界一になるという言葉を発して、自分自身の心に刷り込んでいます。逆にマイナス言葉を発する人は悪い運命に自分を引き込んでいきます。心は人生の設計図です。言葉も人生の設計図です。

ジョークと日本人

真面目な日本人はジョークで三回も笑う
一回目は ジョークを聞いたとき。
二回目は そのオチの意味を教えてもらった時。
三回目は 家に帰って、オチの意味が理解できたとき。

知恵と知識

11月7日は【知恵の日】です。知恵と知識はどう違うか?
知識は、ある物事について知っていること。また、その内容。
学習や実験から得られた、誰もが事実として共有できるデータの集合体である。
知恵は、物事の道理を判断し、適切に処理する能力。
知識や経験を、必要な場面に応じて活用できる力で、知識よりも価値が高いものといわれます。
天理教の神様は、人間に、知恵の仕込みをされました。知識はコンピュータに任せて人間は知恵を働かせて物事の道理を考えなくてはいけませんね。

働きアリの法則

働きアリの法則とは、「2:6:2」の法則とも言われるが、組織のなかで一生懸命に働いているのは全体の2割でしかないという法則だ。実は働きアリのうち、積極的に仕事をこなすのは2割とされている。あとの6割は普通に働くアリ、2割はさぼっているアリで構成されている。この割合は、集団を変えても同じようなグループに分かれることが明らかになっている。つまり、2割の「優秀な働きアリ」たちばかりを集めたグループをつくったとしても、時間とともにいつの間にか「2:6:2」に分かれてしまう。また、同じように、働かない2割のアリばかりを集めた集団でも同じ変化が起こることがわかっている。
「働きアリ」の法則は、人間にも当てはまると考えられている。自分は良く働く2割?普通の6割?さぼっている2割?

 

賭け事

「あなた!また賭事やってるんじゃないの?!」
妻の花子はウンザリした態度で言った
「何言ってるんだよ、もうキレイさっぱり足を洗ったよ」
と、夫の一郎が返す
「今度こそ、本当に本当でしょうね!?」
「本当だよ花子、嘘だと思ったら僕が賭事をやめたかどうか賭けるかい?」

益者三友損者三友

「益者」とは、自分にとって有益な友人のこと。
「損者」とは、自分にとって害のある友人のこと。
益者三友損者三友とは、交際して自分の為になる友人には三種類あり、交際して自分が損をする友人も三種類ある。前者は正直な友、誠実な友、博識な友。後者は不正直な友、不誠実な友、口先のうまい友である。この中で自分の悪いところも正直に言ってくれる友が一番大切であるが、ないがしろにしがちである。

インドの列車

インドの鉄道はしょっちゅう遅れる。しかし、人々は慣れたもので、それにいちいちめくじらを立てて怒る者などいない。みんなのんびりお菓子を食べたりしながら、おしゃべりを楽しみ、それぞれの時間を駅で過ごしている。ところがある日、列車が時間通りに到着し、発車してしまった。乗り遅れた人々は、口をそろえて駅員に抗議した。【いったいどうしてくれるんだ!いつも遅れるくせに!この責任をどうとるつもりだ!】  すると駅員はすました顔をしてこう答えた。  【ご安心ください。今の列車は昨日の列車です。】

朝三暮四

昔中国の宋(そう)に住んでいた狙公(そこう)は、ある日、経済的に困窮してしまい、飼っていた猿にあげるトチの実の分量を調整することにしました。
猿にトチの実を与える際に「朝3つ、夕4つ」と伝えたところ、猿は少ないと抗議します。そこで、「朝4つ、夕3つ」を代わりに提示した狙公。量に変わりはないのに猿はまんまと欺かれ、よろこんで受け入れた…
内容は変わりがないのに、目先を変えただけで、変わったと勘違いすることのたとえです。  天理時報の購読者が減っている。手配りや、タブロイド判に変えたり努力はしているが、読者の減少は続いている。高齢化で仕方のない面はあるが、目先を変えるだけでは同じではないだろうか?もっと読みたくなるような、内容にしてゆくことが大切なのではないだろうか?  難しいことだが是非頑張ってもらいたい。

魔人への願い

一郎と次郎と三郎が海で遭難して無人島に漂着した。三人は島から容易には脱出できないことに気づき、生きていくのに必要な物を探しに各自島を探検しに行き使えそうな物を持ち寄った。一郎は古ぼけたランプを見つけてきた。汚いランプを拭いていると、突然ランプから魔人が現れた。ランプの魔人はこう言った【お前たちの望みをかなえてやろう、ただし同じ願いは許さん、一人ずつ違う願いを言いなさい】
一郎はこう言った【家に帰りたい】ぴゅーん 一郎は家にとんで行った。
次郎も家に帰りたっかったが同じ願いは聞いてくれないので、少し考えてこう言った【家の風呂に入りたい】ぴゅーん 次郎は家の風呂に飛んで行った。
残された三郎も家に帰りたかったが、同じ願いは言えない。そこでとっさに、【一郎と次郎に会いたい】と言った。ぴゅーん  一郎と次郎が無人島に帰ってきた。

修道院の高齢化

6年前のことですが、ある銀行の会で北海道旅行に行ってきました。その中で函館のトラピスチヌ修道院を見学しました。観光名所になっているのですが、肝心の修道院としてはどうなのか? シスターの高齢化が進み一番若いシスターが70歳代と聞きました。今では80歳を過ぎているのでは?あと20年もすれば、修道院としては機能せず、建物だけの観光名所になるのでしょうか? この自由な現代社会において、一般社会と縁を切って一生を修道院で暮らす人はなかなか現れないでしょう。  隔離された場所で規則正しい生活を続けるのは刑務所のような感じですね。もっと一般社会と交流をもって自由に生活できる修道院でなくてはいけないのでは?  宗教界も昔にとらわれず堅苦しさを変えていかないといけませんね。

三匹のカエル

三匹のカエルが、生クリームの入った桶の中に落ちてしまった。一匹目のカエルは【全ては神様のお考え次第だ】と言って、何もしないですぐに命が尽きた。二匹目のカエルと三匹目のカエルは、足をばたつかせて必死にもがいた。二匹目のカエルは【もうだめだ、どうせ死ぬのに、こんなに苦しい思いをするのはばかげている疲れ切って死んでいくなんて割に合わない】カエルはもがくのをやめ白い液体に飲み込まれていった。三匹目のカエルは【どうしたらいいんだ?死が近づいて来ているのはわかっている。でも僕は最後まで諦めないぞ】と言ってカエルは足をばたつかせて頑張った。するとクリームが硬くなってきた、カエルが生クリームをかき混ぜているうちに、なんと生クリームがバターに変わっていた。驚くながらも硬くなったバターを蹴って外に飛び出すことができた。天理教も諦めずに努力し、もがいていれば教勢が伸びていくと思う。


算数

先生:【もし君が100円もっているとする。お父さんが100円くれたとしたら、いま何百円持っている?】
生徒:【100円です】
先生:【こんな算数がわからないのか?】
生徒:【先生は僕のお父さんを知らないのです】

はたらく

働くとは【はたの者を楽にする】ことだと言われます。【はた】傍というのは、他者のことです。自分の周りの他者を楽にするのが、働くこと。  働くというのは決して自己犠牲ではなく、自分に与えられた能力や特異なことを生かしてそれを活用して働くことが、他者を楽にするのです。お互いがそうやって良い社会が成り立つのです。天理教の会長職も周囲の人を楽にする(心を楽にして陽気暮らし)のが、働くことではないだろうか?

ダーウィン進化論

進化論で知られる、チャールズ・ダーウインの言葉に【最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのではない。唯一生き残ることができる者は、変化できる者である】というのがある。天理教はこのまま生き残れるのだろうか?素晴らしい教えを、後世に伝えて残すために変化しなければ神様に申し訳ないように思うのだが?  どんな組織も企業も生き残るために時代に合わせて変わっている。 絶滅危惧種にならないよう進化し続けなくてはならない。この素晴らしい教え自体は変えず、組織形態や布教方法など変える必要があるように思うのだが。

確率

不安顔の紳士が、スチュワーデスに尋ねた。【この飛行機が墜落する確率はどのくらいかね?】   【1万分の1以下ですね。ご心配なく】 紳士は【私は数学者だからそのくらいの数字ではとても安心できないな。】スチュアーデスは少し考えてから微笑んだ。  【そんなにご心配なら、お客様が今 この飛行機をハイジャックしてみませんか】 紳士は【?】 【統計では飛行機がハイジャックされて、しかも墜落した、という確率ならば1000万分の1以下になります。】

マーフィーの法則

昔、マーフィーの法則というのがはやりました。ジョセフ・マーフィーは【心に願ったり、イメージしたことは、必ず実現する】という潜在意識の法則を唱えたものです。ジョセフ・マーフィーの言葉には【どのような人生を生きているかを問わず、現在の」人生はあなたの考え通りのものなのです】【世の中には幸も不幸もありません。あるのは思いの違いだけです】 天理教でも【心通りの守護】と教えています。心が人生を作ります。

マーフィーの法則その2

機械が動かないことを証明して見せようとすると、動き始める。
洗車し始めると雨が降る。
・バスはいつも予定時刻通りに来ないが、自分が予定時刻に遅れた場合に限って、時刻通りにやってくる。
・机の上のお茶は、いつも最も重要な書類のほうに向かってこぼれる。
・傘を持っていないときに限って大雨が降る


日々是好日

禅の言葉で毎日が良い日であるということ。日本では仏滅が悪い日、キリスト教では13日が悪い日などと言われますが、天理教では良い日悪い日などということはありません。 もちろんその人にとって悪かった日や良かった日はあると思います。日にちではなく個人差です。例えばスポーツの試合に出て負けた日はその人にとっては悪かった日ですが、勝った相手は良い日になる。でも負けた日でも、その負けから多くの得ることがあれば良い日になります。心の持ち方次第です。毎日が良い日と考えたい。良い日にしたい。

妖精

ある夫婦が結婚して35年目を迎え、共に60歳になったお祝いをしていた。その時に妖精が現れて、2人が長年寄り添ってきたことは関心である、それぞれひとつずつ望みをかなえてあげよう、と言った。妻は世界旅行がしたいと言った。妖精が杖を一振りすると、妻の手に世界旅行の切符が一枚現れた。次は夫の番だった。ちょっとためらってから、夫はこう言った【ええと、私より30歳若い妻がほしい】妖精は杖を振り上げた。ボーン!夫は90歳になった。


ハリネズミのジレンマ

冷たい冬のある日、二匹のハリネズミはお互に温めあおうと、身体を寄せ合わせた。しかし、相手の針が自分を刺していたいので身体を離した。離れると寒くなり、くっつくと痛い。そういうことを繰り返しているうちに、ついに、お互いを傷つけずにすみ、しかもほどほどに温めあうことのできる間隔を発見した。これは物理的な距離であるが心理的距離もある。人間は【一人だと寂しい】【誰かと一緒にいたい】と思う依存願望と、反面、【一人のほうが気楽】【干渉されると煩わしい】という自立願望がある。この両方を満たす心理的距離が【心地よい距離である】しかし、自分にとって心地よい距離が相手にとって心地よいとは限らないので難しい。長く続けるにはお互いの妥協心が必要ですね。

18歳と81歳の差

 

人は鏡自分を写す反射鏡

天理教では【みなせかいのむねのうち、かがみのごとくにうつるなり】と、教えています。神様は人の姿を通して自分のむねのうちを見せてくださるのです。アメリカの偉大な精神科医のH..S.サリバンは言っています【人が相手の中に見ることができるのは、自分の中にあるものだけである】だから、相手の良いことも、悪いことも、気になる嫌なことも、実は自分の中にもあるのです。似た者同士、類は友を呼ぶ、など昔から言われるように人は自分を映す鏡なのです。嫌な態度を見た時には、相手に変わってもらうのではなく、自分の心を掃除するチャンスととらえてほこりを掃除したいものです。そうすれば相手も変わってくるものです。

親の気持ちで

天理教を理解するには、親の気持ちになればいいのではないだろうか?難しく考えることはないと思う。親は皆子供の幸せを願うものである。長男も次男もない皆同じ子供、でも親に感謝する子は可愛い。願い事ばかりの子供も可愛いが、成人したら少しは感謝の気持ちに切り替えてもらいたいと思うものである。難しい理の世界を語っても陽気にはなれないのでは?また、ご利益ばかり語ってもいけないのでは?

いいニュース悪いニュース

A君は念願の新車を買ったばかりである、自慢の新車である。そんなA君に、妻のB子からA君の携帯電話に電話がかかってきた。 B子:【あなた、いいニュースと悪いニュースがあるの、どちらを先に聞きたい?】
A君:【いいニュースを先に聞きたいな】 
B子:【あなたの買った新車エアバック正常に機能したわよ】

 

学問のすすめ

福沢諭吉の有名な言葉に『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』という言葉があります。みんな平等だということですが、生まれながらにして平等である』を意訳して引用した上で、「しかしながら実際には賢い人と愚かな人、貧しい人と富んだ人、身分の高い人と低い人がいて、雲泥の差がついている」という意図の文章が続きます。これこそが、諭吉の意図した主張で、「だからこそ、その不平等な差を埋めるため、生まないために、勉強して自分を磨くことをお勧めする」と説いているのです。まさに【学問のすすめ】です。生まれた環境で平等ではないが、学ぶことによってその差を埋めることができるということを言っている。学ぶということは考えるということです。教祖が言っている【しあんせよ】ということが、学問の勧めと同じことかも?天理を学ばなくては。

面会

会社に孫に面会したいと田舎からおばあちゃんがやってきた、受付で【こちらで働いている鈴木昭の祖母ですが、孫と面会させていただけませんか?】  受付の方が所属部署に問い合わせて、おばあちゃんに答えた【鈴木さんは今日は欠勤です。お気の毒ですが、あなたのお葬式に出席しています】


宗教とお金

宗教にはお金がかかります。神社仏閣でも建物の維持費や専従者の生活費など、宗教とはいえどもお金がなければやっていけません。また信者も神様・仏様に感謝の心を表すために賽銭やお布施などを納めます。 当然のことですが、金額が多額になったり、強制したりしてはいけないと思います。今 会長代理をしているので信者さんからの献金はありがたく思っています。神様自体は食べるわけでもなく、買い物に行くわけではないので、神様をお守りしている建物・専従者の費用です。どこまでが妥当な金額なのか?いつも考えさせられます。

勉強する大学生

ある日本のマンモス大学に、見学に行った発展途上国の人が、学長に尋ねた。【この学校は学生の人数が多いですね、一体何人くらいの人が勉強しているのですか?】
学長はすこし考えてから答えた【5人に1人くらいですかね】

返事はハイかイエス

私の所属するロータリークラブでは、役職をたのまれた際には、返事は【はい】か【イエス】と言われています。その役職のできない人には頼んでこないのだからできるはず、ということです。人間はたのまれるうちが花です。何も頼まれなくなったら寂しいものです。できるかできないかはあまり考えなくても何とかなる。

還元する

会社を経営していてつくずく思うのは、会社は社員によって支えられているということ。会社が苦しいときは出来ないが、少しでも余裕があれば還元したい。新年会や親睦旅行は全て会社もちで社員に還元している。 天理教も同じだと思う、教会は信者さんたちのお供え金で成り立っている。たまには、信者さんに還元しなければならない。今回おぢば帰りを企画したのも、信者さんたちへの普段のお礼からです。支えてくれる根っこを大切にしないと、花も実もやがて枯れてしまう。


物忘れ

患者【先生、最近物忘れがひどくて、さっきあったことも忘れてしまって困るんです】
医者【そうですねえ、とりあえず治療費前金でください】

親切は受けるのが親切

先日 電車に乗っていたら、白髪のおばあさんが乗ってきた、座るところがなかったのですが、若い男の子が、【どうぞ】と言って、席を立った。 そのおばあさんは、まだ私は若いから大丈夫ですと言って、断った。席を譲ろうとして立ち上がった青年は、また座りなおすのも恥ずかしかったのか、隣の車両に移ってしまった。周りの人たちも、その席に座ることもできず白けたムードが漂っていました。このおばあさんがありがとうと、言って席に座っていれば、青年も気分がよく周りの人も気持ち良い雰囲気でいられたのだろうと思う。親切は受け入れなくてはいけませんね。私も老人と思われるのはちょっと抵抗がありますが、若い人から見たら老人です。席を譲られたら【ありがとう】と言って席に座らせてもらうようにします。

その歳には

父親が息子に言った【遊んでばかりいないで勉強しなさい、リンカーンがお前の歳の時には毎日家で、6時間以上勉強していたそうだよ】 
 息子は父親に言った。【リンカーンがお父さんの歳には大統領になっていたよ】

高齢化社会

日本は高齢化社会になっています。65歳以上の人口が29%です。現役世代の人2人が1人の老人を支える構造です。これからはさらに負担が増していくと思われます。50年前は一人の老人を7.7人で支えていました。若い世代を増やさないとやっていけない構造になります。頭でっかち社会なのです。会社の組織もそうですがピラミッド構造が一番いいのですが、逆ピラミッドになってしまっています。これは社会構造だけではなく宗教界も同じです、昔は300人で一つのお寺を支えていたのが現在は数十人というところも珍しくはありません。廃寺が増えています。天理教も例外ではありません。今こそ何か手を打たなければならないときですが、即効薬はありません。今後は子ども食堂などをきっかけに、少しでも広さのある教会は地域に開かれた教会つくりをして多くの方々に天理教の良さを知ってもらうしかないと思います。お悩み事相談会など、人助けという種まきをしていくしか方法はないと思います。それには堅苦しい考恵を捨てて若者にも受け入れられる開かれた宗教組織でないといけないのでは?

百姓のおじいさん

以前百姓のおじいさんが言っていた言葉に、こんな言葉があります。【わしら百姓は作物を作っているのではない、耕して耕していい土を作っているんだ。いい土に種をまけばあとはおてんとうさまと雨の恵みで自然にいい作物が実ってくる】  天理教における土つくりとはなんだろうか?

計量

あるご婦人がパン屋に飛び込んできた。彼女は怒りに任せてまくし立てた。【今朝、こちらでうちの息子にクッキーを2キログラム買ってこさせましたのよ。でも家で量って見たら1キログラムしかございませんでしたわ。あなた、お店の量りの調子を確かめたほうがよろしいですわよ。】
パン屋のご主人は、このご婦人をしばし冷静に見たうえで、こう答えた【いやー、そうでしょうか。奥様のほうこそ、お子様の体重を量ってごらんになったほうがいいと思いますよ】

陰徳

私が三か月間修行(修養科)に行っていたときに、関根豊松先生(愛町分教会初代会長)の言葉が張ってあり、人の見えないtころで徳を積むのが陰徳と言って、誰も人が見ていないところで良いことをするのを推奨していました。 修養科生の中には、皆が起きていない時間に掃除に出かけたりして人の見ていない時間に良いことをしていました。素晴らしいことですね。しかし、わざわざ人に隠れてこそこそやる必要があるのだろうか?良いことをするのに、人が見ているから善い行いの価値がない、人が見ていないから善い行いに価値があるというのは少し違うような気がします。道端にゴミが落ちていたら人が見ていようが、いまいがゴミを拾ってゴミ箱に入れる。そんな自然体でも良いのではないだろうか?どんな時も他の人のことを思いやるそんな気持ちが陰徳ではないか?人が見ていないときに行えば陰徳が増えるから、自分のためになるから、と思って行うのは真の陰徳ではないような気がするのですが?

幸せ

毎日、帰る家があることの幸せ。
毎日、挨拶する家族や友達がいることの幸せ。
毎日、ご飯が食べられることの幸せ。
あなたの毎日は、幸せにあふれていますよ。
遠くを見ているから気が付かないだけなのです。

立っている人は馬鹿

先生:【この中で自分が馬鹿だと思っている人は立ちなさい】
沈黙の後、一人の生徒がおずおずと立ち上がった。
先生【よろしい、君はなぜ自分が馬鹿だと思うのかね?】
生徒【僕は馬鹿ではありませんが、先生一人を立たせておくのが忍びなくて】

素直とは

母親同士の会話の中に【親に逆らうことのない素直な子です】とか【素直が一番です】という言葉を耳にすることがある。ところがそういう会話に耳を傾けていて【少しおかしいのでは】と思うことがある。それは、母親の言う【素直さ】とは、【親に逆らわない】【人に反抗しない】【親の言うことはなんでも聞く】ということに偏り過ぎているように思うのです。素直ということは【飾り気がなくありのままである様】が本来の意味です。子供の側から言えば【自分の思ったこと、考えたことを率直にいう】ということになります。親の前でいい顔をして言いたいことの言わない見せかけの【素直さ】はつくろっているだけに過ぎないと思います。
【素直な心とは全てに対して学ぶ心で接し、そこから何かを得ようとする謙虚さを持ったっ心です】
若いころ、先輩に神様の話は素直に聞きなさいと言われて来たが、何かを得ようとしていたから逆らったこともある。素直でない子と思われたことでしょう。

雨乞いの祈り

日照りが長く続き農家は困っていた、雨を降らせてもらおうと、その農村は神父さんにお願いし、雨乞いの集会を開いた。
快晴のその朝、教会はあふれんばかりの農民が集まった。神父は説教壇に上がると、会衆に向かって、こう尋ねた。【皆さんは、どうして今日、ここに集まっているかご存じでしょうか?そこでお尋ねしたいのですが、傘をお持ちの方が一人もいらっしゃらないということは、どういうことでしょうか?】
私がおさづけするといっても同じかな?

忖度(そんたく)

忖度とは、相手の気持ちを推し量ることを意味しますが、近年の忖度は「顔色をうかがう」「ゴマすり」「ご機嫌取り」の意味でつかわれます。 2016年から17年にかけて【もりかけ問題】があり忖度という言葉が流行語になりました。 森友学園に不当に安い価格で国有地が払い下げられ、また、加計学園には獣医学部を認可させるという便宜が図られ問題になりました。もりとも・かけ両学園共、安倍首相や昭恵夫人が親しくしている間柄なので官僚が忖度したのではないかとの問題でした。 自分の保身のために、上司や先輩など、目上の人の顔色を伺って自分の意思とは別の行動をすることを意味しています。これは政治の世界だけではありません。組織であれば少なからずあるものです。しかし天理教では神様が【人間はみな一列兄弟】と言っているので、そんなことをしては神様の意思に反するので私は忖度はできるだけしたくない。 忖度しないからこんな勝手なことをかけるのかもしれない。
  あの当時、蕎麦屋さんがイメージが悪いので【もりそば】【かけそば】のメニューを外したというのは本当だろうか?

病気の治る人

病気の治る人とは病気を忘れてしまう人という説があります。病気を治そう、治りたい・治りたいと頑張る人がありますが、こういう人は病気そのものに意識やエネルギーを集中してしまってかえって病気にとらわれてしまい、治りにくいタイプの人だというのです。納得する話です。  反対に、すべき治療をしながら、その結果については【前向きに放棄している】人。治療には力を尽くすが、結果は神の意思に預けてしまう人。こういう人は病気に心をとらわれることが少ないので、そもそも病気になりにくく、また、治りやすいタイプなのです。天理教には『憩の家』という病院があります。治療は病院で、結果は神に預ける方がいいと思います。憩の家↓

 

ジェットコースター

ジェットコースターの順番待ちをしていたら、後ろに並んでいたおじいさんが、【こりゃあ混んでるから、座れないかもしれんな】と言っていた。

幽霊

今年、ユーチューブだったかどこかで聞いた天理教のお話の中で、海外の話だったか忘れましたが、ある人が病院にお助け(人助け)に行っていたら、病人がその人の後ろに赤い着物を来た老人が見えたという話です。赤い着物を来た老人は天理教教祖の姿です。教祖は死んだ後も存命で働いているということを示す逸話なのかもしれませんが、天理教では他の宗教のような怪奇現象は教えていません。もちろんそういう怪奇現象がないとは言い切れませんが、私はそう言う事例を語って存命の理をいうのは違和感を感じます。私たちが眠っていても心臓は自然と動いてるし呼吸もしてる。そんな天の理(神が作られた仕組み)をわかりやすく語ってもらいたいと思うのは私だけかな?

昔話

日本の昔話には必ず【むかしむかし、おじいさんとおばあさんがいました。】から始まります。なぜ、おじいさんとおばあさんなのでしょうか? 長く生きた老人の知恵が生きて物語を作る? 語り手がおじいさんやおばあさんで孫とのコミュニケーションで話をしたため? こんなことを考えていると寝られなくなるが、楽しいものです。  でも物事には何か理由があるものです。その真実を探るのは名探偵コナン君のような洞察力が必要なのかも?

レストランにて

ドイツ人と日本人とイタリア人が一緒に食事に行った。食後、三人はそれぞれこう考えていた。
ドイツ人は割り勘にするといくらか?考えていた。
日本人は3人分払うといくらか?考えていた。
イタリア人はおごってくれた人になんとお礼をいうか考えていた。

3人のレンガ職人

イソップ童話に3人のレンガ職人の話があります。旅人がある町を歩いていると、汗をたらたら流しながら、重たいレンガを積んでいる3人のレンガ職人に出会いました。  そこで旅人は【何をしているのですか?】と尋ねました。その3人のレンガ職人は次のように答えました。
1人目は【親方の命令でレンガを積んでいるんだよ、暑くて大変な仕事だからこりごりだよ】と答えた。
2人目は【レンガを積んで壁を作っているんだ、きつい仕事だけど給料がいいからやっているんだ】
3人目は【レンガを積んで、後世に残る大聖堂を作っているんだ、こんな仕事につけてとても光栄だよ】
目的意識の差ですね。あなたが家を建てるとしたら誰にたのみますか?天理教会長の仕事は何が目的?信者を増やすこと?人を助けること?皆を陽気暮らしできるようにすること?

あほうは神の望み

若いころ天理教の話について、先輩たちに色々尋ねました。そしたら理屈は考えずに、あほうになって聞くものだと言われました。【自分の考えを捨てて、何も考えずに会長さんたちの言うとおりにするんだ】ということでした。お筆先には【しあんせよ】という言葉が64回も出てくるのに、考えることを放棄するということがおかしいと思いました。本当のあほうは神様のことを理解して、周りからはあほうと言われても困っている人を助けるため貧に落ち切った時代の教祖の姿ではないだろうか。真に心が定まれば周りからあほうと言われてもとおり切ることができるのだろう。

なぜを5回

トヨタ生産方式ではトラブルが起きたときになぜを5回繰り返し真の原因を探って再発防止をしている。例としては、機械が動かなくなってしまった時
①なぜ機械が止まったか?
    →負荷がかかりすぎてヒューズが切れたからだ。
②なぜ負荷がかかり過ぎたか?
    →軸受け部の潤滑油が足りなかったからだ。
③なぜ潤滑油が足りなかったか?
    →潤滑油ポンプが十分くみ上げなかったからだ。
④なぜ潤滑ポンプがくみ上げないか?
    →ポンプの軸が摩耗していたからだ
⑤なぜ摩耗したか?
    →濾過器がついてないので切粉が入ってしまったからだ

このように真の原因を、つかまないと単にヒューズが切れたからフューズを取り替えて終わってしまったら、同じトラブルがなんどもおきることになる。人間関係も常に同じトラブルが起きるのは真の原因をつかんで対応していないからかもしれない。

人間は誰しも【欲】をもっています。欲があるからこそ学び、努力し、結果として社会は発展してきました。より高みを求め、より多くを求める心は決して悪いことではありません。しかし、他の人を悲しみのそこに陥れても欲しがる欲は良いこととは思いません。強欲になってはいけないけれど欲がなくなったら人間としては寂しいことですね、味気のない人間になってしまいます。天理教では八つのほこりというものがあります。【欲】もその一つです。締め切った部屋でもほこりはたまります、ほこりのない人間はいないと思います。時々掃除すればほこりは取れるものです

 

毒蛇

二匹の毒蛇が散歩していた、一匹の蛇がもう一匹に聞いた【俺たちって本当に毒持ってるの?】もう一匹が答えた【ああ、持ってるよ、噛んだら像だって倒しちゃう猛毒だよ】  【へえー】    【なんでそんなこと聞くんだい?】    【さっき舌かんじゃったんだ】

感謝とは

私は天理教の根本は感謝だと思っています。人間として生まれたこと、天地自然の理(仕組み)によって生かされていること。全てに感謝して陽気に暮らしたいと思っています。 この感謝の言葉は【謝】を【感じる】と書きます。【謝】は 謝礼とか謝恩というようにありがとうと、お礼をいう意味があります。 しかしもう一つ 謝罪とか謝るなどごめんなさいという意味もあるのです。人間は誰しも悪い心を使うものです。24時間聖人君子でいる人はいない。自分もそうです。毎日悪い心を使っていますだからこそ、神様に朝晩ありがとう、という感謝と,ごめんなさいという感謝のお勤めをしています。

決心

ある日読んだ本に、食べ過ぎは身体に良くないと書いてあったので、小食にした。
ある日読んだ本に、喫煙は身体に悪いと書いてあったので禁煙した。
ある日読んだ本に、肉食は身体に悪いと書いてあったので菜食にした。
ある日読んだ本に、飲酒は身体に悪いと書いてあったので、本を読まない決心をした。

遠慮は甘え?

若いころ、ふとしたことでお世話になった方に、お礼をしようと思い、菓子折りと礼金をもっていきました。その人は、遠慮深い人で、受け取りませんでした。後で他の人から聴いた話ですが、その人が、遠慮して一回【そんなことはしなくても結構ですよ】と言ったら、はいそうですかと言って持ち帰ってしまった、あいつは気の利かない奴だ、と言っていたそうです。一度くらい遠慮して断るのは日本人の常識なので、その気持ちを察することが出来ないのはダメな奴と思われたようです。外国であれば【イエス】と【ノー】がはっきりしている。以前フィリピンに子会社を作ったことがありました。社員募集の時に応募のあった履歴書で【日本語しゃべれます】というので合ってみたところ、【おはよう・こんにちは・こんばんは】しかしゃべれない、でも日本語です。海外では出来なくても遠慮などしていたら、仕事にもありつけない、自分をいかに主張して行くかが、生きるために必要な最低条件なのです。遠慮などしていたら生きていくこともできない状況なのです。遠慮しても生きていける日本は豊かなのかもしれません。しかし、世界には通用しない甘えでもあるのかもしれない。

ソーナのたとえ

ある時、お釈迦様は、マガダ国の都である王舎城の霊鷲山で修行をされていました。多数の修行者の中にソーナという一人の青年がいました。真面目なソーナは、自ら厳しい修行を課していました。でも、なかなか悟りを得ることができません。悩み苦しんだうえに、修行を捨てて世俗の生活に戻ろうと考えるようになりました。  お釈迦様は、ソーナの心の迷いを知って、その心境を尋ねました。彼は正直に思いを打ち明けました。  お釈迦様は、彼が琴の名手であったことを思い、【ソーナよ、琴を弾くときはあまり弦を強く張ってしまうと良い音は出ないであろう、また弦の張りが弱すぎても良い音は出ないであろう、ソーナよ仏道の修行も同じことだよ。無理に修行を重ねても、心が高ぶって冷静で沈着な心をいただくことはできないだろう。弛み過ぎても怠け心が沸いてくるであろう。ソーナよ、あなたは琴の音を調える時のように、どちらにも偏らない素直な修行の実践が大切だよ】(中道の道)と教えました。ソーナはこのたとえを胸に抱いて、再び修行に励み、ついに悟りの境地にいたることができました。 天理教でも、おぢ場帰りには観光をしてはいけないという方もいますが、あまり硬く考えては、人はついてこないのではないだろうか?中道が一番難しいことかもしれない。

 

万人幸福の栞17か条

社長をしていたころ、経営者の倫理を学ぼうと思い、倫理法人会という団体に入会した。経営者の心がけを学ぶところです。毎週一回のセミナーは早朝からスタートします。セミナーが終わってから出勤すれば会社の始業時間にまにあいます。勉強になる会ですが、当時の私は夜遅くまで仕事をしていたので朝は弱くて長続きしないで退会してしまいました。倫理法人会で皆で読んでいたこの17か条は心にとめるといいですね。

 

電話

ある若いビジネスマンが夢であった自分の会社を起こした。彼は素晴らしい事務所を借りて、素晴らしい絵画を飾った。彼は事務所の外に来客が来ているのに気が付いた。彼は見栄を張って、受話器を取って外に聞こえるような大きな声で何億もの商談が成立しているような会話をして、電話を切った。そして外で待っている来客に忙しそうに、【何か御用ですか?】と聞いた、すると男は言った。【あのー、電話会社ですが、電話回線をつなぎに来たのですが。】

矛盾(むじゅん)

昔、中国の楚の国で、武器を売っている人がいました。矛と盾を売っていたのですが、まず矛を売るときに【このはどんな硬いをも突きとおすことができる優れモノですと言って宣伝し】  次にはを取り出し、【このはどんな鋭いでも防げることができる硬いです】と言っていたが、あろお客が【それではお前のでお前のを突けばどうなるか?】と尋ねられ答えることが出来なかった。つじつまのまわないことのたとえですが、人の心は矛盾だらけです。矛盾とはちょっと違うかもしれませんが、【試験には合格したいが勉強はしたくない】【試合には勝ちたいがつらい訓練はいやだ】など、自分自身を振り返ってもそうなのです、人間はそのようなものなのでしょうか。

ゲームが終われば同じ箱

私は秩父大教会の所属ですが、関西に行ったときにいくつか大教会を参拝することがあります。しかし大教会参拝は少し違和感を感じます。一般の教会では 真ん中が【親神様】 右側に【教祖様】 左側に【祖霊様】が祭ってありますが、大教会はどこも【祖霊様】が二つ祭ってあります。聞いた話だと歴代教会長や役員を祭るので一つ、その他信者をまつるので一つということらしいです。神様と教祖は別で良いのですが、御霊様は一つで良いのではないかと思っています。神様は、人間はみな一列兄弟 上下の隔てはないと教えています。
西洋のことわざに【キングもボーンもゲームが終われば同じ箱にしまわれる】というのがあります。日本の将棋で言えば、ゲーム中は、王将は一番大切な駒、は王将を守るための捨て駒です。しかし将棋のゲームが終われば同じ箱にしまわれます。天理教も死んだ後も人を差別する必要はないような気がしていますが・・・。

初めての手術

患者:【ドクター、とても緊張しています。僕、手術するの初めてなんです】
医者:【心配いりませんよ、私も手術するの初めてなので】

理性と感情

人生はバランスです。感情的過ぎてもうまくいかないし、理性的過ぎて抑え込んでいると、ため込んでしまうとあるとき爆発して切れてしまったり、病気したりします。そういうことがないように理性と感情をうまくバランスをとることが大事です。理性だけでは感情のないコンピューターのようなものです。理性だけでは人は動かない【理動】という言葉はないが【感動】という言葉はある。感情のパワーは強いですから、抑えるのでなく、そういう自分を認めうまく理性的にコントロールしていければいいですね。人間である以上、嫌な思いもするし、怒りとかいろいろな感情を持ったりします。逆に喜怒哀楽がある方が人間味があります。難しいですね。 智に働けば角が立つ情に棹させば流される意地を通せば窮屈だ とかくに、人の世は住みにくい。


相手の相手を思う

インドにネルーという目の不自由な人がいました。ネルーは、久しぶりに友人のナンダを訪ねました。つもる話に花を咲かせ、ふと気づくと外は真っ暗な夜になっていました。慌てて帰ろうとするネルーに、ナンダは「夜道は危ないから」と提灯を持たせてくれようとしました。するとネルーは「目の不自由な私に提灯は要るわけがない。悪い冗談はよしてくれ」と怒りました。するとナンダは「あなたには要らなくても暗闇なので相手の人がぶつかってくると危ないから持って行きなさい。」その言葉にネルーは納得し、提灯を持って帰りました。
この話は、自分には必要が無くても、相手には必要なものもあるということです。自分だけではなく相手の立場に立って考えることが大切だと教えてくれています。それはものだけでなく、言葉や行動もそうではないでしょうか。
この話を読んで、相手やその相手の気持ちを考えられる人間になりたいと思う今日この頃です。

悩みがあるから生き甲斐がある

悩みがなければ、どれほど良いか、誰しもが時にそう思う。  けれども、悩みのない人生ほど味気ないものはないのではないか?  悩みがあればこそ、様々なことを深く考えることもでき、それを乗り越える喜びも味わえるものです。悩みのない人生は味のない食事をするようなものではないだろうか?悩みの種は尽きないけれど、それは、生き甲斐、喜びの種が尽きないと考えたい。

覚醒医療

私が以前入会していた覚醒医療ネットワークという団体があります。コロナ禍以降ご無沙汰してしまいました。覚醒とは目覚めるという意味です。西洋医学が進歩しても病気はなくならない、人間の持つ自然治癒なや力など人間が持つ力を目覚めさせる医療のことです。参加した時には、心を癒す音楽を奏でる人、香りによって心を落ち着かせる香りの職人や、宗教など人の心から身体を直す話をしていました。天理教も【病の元は心から】という考え方があります。

 

犬:この家の人たちは、餌をくれるし、愛してくれるし、暖かい住処を提供してくれる。
  可愛がってくれるし、よく世話してくれる、
  この家の人達は神に違いない。

猫:この家の人たちは、餌をくれるし、愛してくれるし、暖かい住処を提供してくれる。
  可愛がってくれるし、良く世話してくれる。
  自分は神に違いない。

あれ

今年の阪神タイガースはブッチギリの優勝でした。シーズン後半は岡田監督が選手のみんなが優勝を意識して、堅くならずにのびのびプレーできるように、とあえて【優勝】という言葉を使わず、代わりに【あれ】と言っていました。意識して【あれ】を使っているうちはいいのですが、歳をとると人の名前や物事がど忘れして【あの人】や【あれ】になってしまいます。すごく親しい人と話していると【あれ】で通じてしまうのが不思議です。天理教のお話だけは【あれ】や【あの人】ではなく、はっきりわかるように伝えたい。

 

貧困児童

子供食堂が増えています。日本では貧困児童が7人に1人と言われています(厚生労働省調査)、貧困と言っても、日本ではアフリカ諸国のような絶対貧困(食べるものがなくて餓死したり、生活できないほどの貧困)ではなくて、相対貧困(周りの一般家庭に比べて貧困)です。特に母子家庭や、親が病気で働けないなどの原因からくる貧しさです。そんな家庭の子供に暖かい団らんの食事をしてもらい、精神的にも癒しや、助け合いの心を醸成するものです。今こそ天理教の助け一条の心が必要な時です。

就職の条件

田中:【なお、佐藤】
佐藤:【なんだい?たなか】
田中:【俺、船乗りになりたいんだけど、泳げないけどなれるかな?】
佐藤:【そんなこと気にするなよ!俺パイロットだけど、空飛べないぜ】

解散命令請求

旧統一教会に解散命令請求が出されました。宗教は人々の心をすくい幸せにするものですが、人を不安に陥れ、その心の弱さを利用して献金をさせるのは宗教ではないと思います。 オウム真理教や統一教会などカルト宗教が世間を騒がせると、真に人々の心を救うために真面目に活動している宗教界全体が変な目で見られて被害を受けるものです。 変な宗教が出てこないことを祈るばかりです。

幸せは築くもの?

結婚式に呼ばれて出席すると、新郎新婦の友人たちのスピーチに必ず出てくる言葉が【2人で幸せな家庭を築いてください】と【幸せをつかんでください】です。  私は違和感を感じます、そもそも幸せというものは形がないので、つかみ取ることは出来ませんし、築き上げることもできないと思います。  お金があれば幸せなのか?何が幸せなのか?人それぞれ違います。 全てに恵まれていても幸せでない人もいます。何もなくても幸せで生きている人もいます。 幸せというものは自分自身の心が感じるものなのです。どんなことにもありがたいと感じられる心が幸せなのだと思います。 そんな心が陽気暮らしにつながる。 

料理の説明

和食レストランで隣にカップルが座っていた。
ウエーターが料理をもってきて【スズキ】でございますというと、
カップルの男性が【田中でございます】と言った。
女性のほうも【佐藤でございます】と言った。
話をさえぎられた、ウエーターは話を続けた。
【本日のお勧めの魚料理スズキでございます】と料理の説明を続けた。

朝つとめ、夕つとめ

私は毎日「朝つとめと夕つとめ」をしている。 神に毎日の感謝をするためである。
第1節
【あしきをはろうてたすけたまえ天理王の命】
を21回繰り返す。
第2節
【ちょとはなしかみのいうこときいてくれあしきのことは言わんでなこのよの地と天とをかたどりて夫婦をこしらえきたるでな、これはこの世のはじめだし】
    これを一回
第3節
【あしきをはろうてたすけたまえいちれつすましてかんろだい】
これを3回X3回

第1節で、自分の悪いところを払って助けてくださいとお願いする。
第2節では、神が出てきてこの世を始めた元始まりの話をする。
第3節では、今度は自分ではなく世界一列みんなの心を澄まして甘露(天の与え)を願う。

神への感謝と共に
自分が助かりたいという自己中心的な心から、神の話を聞いて、みんなを助けてくださいという人助けの心に切り替えるための、心の訓練かと思い毎日続けています。

ある老人が高速道路を運転していた。
その時、妻が心配そうな声で携帯に電話をかけてきた。
【あなた、気を付けてね。高速道路を逆走している狂った車が一台いるってラジオで放送していたわよ】
老人は【ああ、知っているわい。でも、一台だけじゃないんだよ。何百台という車が逆走しているんだよ、困ったもんだ!】

不謹慎?

私は天理教の信者でありながら、地元の神社の氏子でもあり、昔からお世話になっているお寺の檀家でもあります。不謹慎という人もあるでしょうが、自分としては良いと思っています。  宗教としての教えとしてはもちろん天理教です。  地元の神社などは,そもそも宗教としての教えというものがない、豊作を感謝したりするお祭りなど,近所の方がたとのお付き合いと思っています。 また、仏教は神様がいないから、人間学と考えています。仏教では(生老病死)に加えて愛別離苦等の 四つの苦を加えた四苦八苦や煩悩など人間が生きていくうえで避けて通れない苦悩をどのように考えて人生を生きていくかということを悟るものです、勉強になります。仏教は宗教というより人間学ではないか? と私自身は思っているので、どれも大切にしています。

伝えることは難しい

日本の仏教は大きく分けると13宗派,細かく分けると56宗派あります、それぞれ教えが違います。。2500年前にお釈迦様一人が説いた教えが、なぜこんなに別れてしまったのか?キリスト教もカトリックやプロテスタントまたロシア正教など別れています。今問題になっている旧統一教会もキリスト教の分派と言っています。イスラム教もスンニ派やシーア派などに別れています。 仏教ではお経、キリスト教では聖書、イスラム教はコーランという書いたもの(経典)があるのになぜ上手く伝わらずに別れていくのか?いずれの宗教も教祖は一人なのに別れてしまうのは伝えて行く間に、力を持った人が自分の考えを入れていくからだと思います。天理教も「理の親」信仰というものが、神様めどう、でなく天理教に導いてくれた人(会長さんなど)をめどうに、してしまうと変わっていってしまいます。私の考える天理教は、本当の神様の教えを引き継いでいるのだろうか?ちょっと不安になる。原点を見つめなおしたい。

良いニュースと悪いニュース

ある画家に、画廊のオーナーから電話がかかってきた。
「君に良いニュースと悪いニュースがある」
「まずは良いニュースだ。今日画廊を訪れた紳士が、君の絵が君の死後に値上がりするかどうか尋ねてきたので、
たぶん値上がりするでしょうと私は答えたんだ。
すると彼は預かっていた君が描いた15枚の絵を全部買っていったんだ。」
画家は驚いた。
「それはすばらしいニュースですね。ところで悪いニュースというのは?」
「その紳士は君の主治医だったんだ・・・。」

四つのテスト

私の所属するロータリークラブという奉仕団体では、例会の前に、「四つのテスト」を唱和します。これはクラブ会員が常に心にとめておく心がけです。自分が発言するとき、行動するときの、判断基準・行動基準です。

 

天理教信者の行動基準は、感謝・慎み・助け合いと考える。

 

 

ピント外れ

ある、学者がムカデの実験をしていた。
ムカデに命令した。
「歩け!」
ムカデは歩いた。
ムカデの足を3分の1切った。
「歩け!」
何とか歩いた。
次にムカデの足を半分に切った。
「歩け!」
ムカデは動かない。
学者は実験ノートに書いた。
「ムカデは足を半分に切ると、耳が聞こえなくなる」

諭達第4号には【教祖はひながたの道を、まず貧に落ち切るところから始まられ・・・・】と書いてある,これを、ひながたは貧に落ち切ることと勘違いしないようにしたい、貧に落ち切ることが、ひながたではない。私の知人に「50歳で仕事を辞めて、朝から酒を飲んで、毎日ギャンブルして貧に落ち切った」人がいる。彼をひながたにしたくない。貧に落ち切るのが目的ではない「助け一条」が目的です。ピント外れした、結論を出さないようにしたいものです。

職業観

寒くなると思い出す話に、イソップ童話の、【アリとキリギリス】という童話があります。暑い夏の間、アリはせっせと汗を流し働いて餌を蓄えていました。一方キリギリスは毎日楽しく歌って過ごしました。 やがて冬が来て食べるものがなくなって、キリギリスは死んでしまいましたが、暑い夏の間食べるものを蓄えたアリは、冬を越すことができたという話です。勤勉が大切という教えです。  最近の子供は職業に対する考えが違うので、童話を作らせると、こんな話になります。  (冬になり食べるものがなくなりましたが、キリギリスは、夏の間歌って鍛えた歌唱力を生かして、コンサートを開いてアリを招き、入場料として餌をもらい冬を過ごした)。めでたしめでたし  時代により職業観も変わりますね。 

酔っ払い

子 「父ちゃん、酔っ払うってどういうことなの?」

父 「ここにグラスが二つあるだろろう。これが四つに見え出したら、酔っ払ったってことだ。」

子 「父ちゃん、そこにグラスは一つしかないよ」


このブログも堅い話ばかりだと読むのが面白くないので、時々ジョークを入れます。



しゃかりき

しゃかりきとは夢中になって取り組む様子を表しています。 漢字で書くと【釈迦力】です。 お釈迦様が仏教を開いたのち、人々を救うため教えを説いて回っていた、しかしなかなか浸透しない、けれども諦めずに布教して回った結果、多くの人の心を開いて仏教を広めることができた、その偉大な力を【釈迦力】と呼んだそうです。 しゃかりきとは、がむしゃらに頑張っている人ではなく、誰かのために、一生懸命な様子を表す言葉だそうです。  多くの人が陽気暮らしできるように努力するのも、しゃかりですね。

仕事の色

先日、居酒屋で飲んでいたら隣のテーブルの若者がこんな話をしていた、俺の職場はきつい・汚い・危険というブラック職場だよ、次の人は俺のところはそこまでいかないけどグレー職場かな、三人目は自分のところは環境もいいし、将来性もある、頑張れば評価してもらえるバラ色の職場だよ。  天理教の会長の仕事は色に例えると何色だろうか?  仕事に色があるうちはいいのかもしれない?私の同級生、71歳を過ぎてみんな、無色(無職)です。


宗教改革

中学校の世界史で習った宗教改革、 16世紀キリスト教カトリック教会では、サンピエトロ大聖堂を作るための資金を捻出するため【免罪符】を発行した、免罪符とは罪を犯してもこのお札を買えば罪が帳消しになるというものです。弱い人間の心に付け込んだ金儲け主義でした。こんな腐敗したカトリック教会に反発したのが、マルティン・ルターでした。お金で罪が消せるなんて聖書にも書かれていないということで、宗教の改革運動を起こした。それが人々の共感を呼び【プロテスタント教会】が増えていった(プロテスタントとは抗議するという意味)宗教にはお金がかかるものですが、お金でご利益が買えたり、罪が消せたりするのは本来の宗教ではないと思う。  今はカトリック教会も免罪符などは発行していない。

豊かさとは

小さな漁船がメキシコの小さな島に着いた。休暇で港にいたアメリカ人の観光客が、船から下りてきたメキシコ人漁師に尋ねた。「大漁だね。どれくらい海に出ていたの?」「昼の数時間だけだよ」返答に驚いたアメリカ人は「もっと長い時間、漁をして、いっぱい捕まえればいいじゃないか」と提案すると、漁師は「なんでそんな必要があるのさ。これで十分食べていけるよ」と答えた。「それなら、漁をしていない時間は、何をしているんだい?」とアメリカ人。漁師は「ゆっくり起きて、家族と時間を過ごすんだ。夜は友人とバーで飲んで、ギターを弾きながら歌うのさ」と説明した。アメリカ人は信じられないと、首を振った。「私は、ビジネススクールで経営学を学んだ。君はもっと漁をして魚をいっぱい捕れば、大きな船が買えるよ。大きな船ならばもっと多くの魚が捕れる。会社だって設立できるよ」「それにはどれくらいの期間がかかるんだい?」「20年か25年ぐらいかな。そして会社の経営がうまくいけば、上場して株を売って、億万長者にもなれるさ」とアメリカ人は胸を張った。「へえ、その後は?」とメキシコ人は不思議そうに聞いた。「成功したら引退して、海の近くの小さな島でゆっくり暮らせばいい。朝はゆっくり起きて、子どもと遊んだり、ちょっと釣りをしたり。夜は友人とバーで飲みながら、楽しい時間を過ごせるよ」漁師は言った。「もう、私はそうしているじゃないか」

国民性

世界各国の人が乗った船が沈没しかかっています。そこで、船長は各国の乗客を海に飛び込ませようとします。
アメリカ人に対して「飛び込めばヒーローになれますよ」
イタリア人に対して「海に飛び込めば美女に愛されます」
フランス人に対して「決して海には飛び込まないでください」
イギリス人に対して「ここで海に飛び込めば紳士です」
ドイツ人に対して「海に飛び込むのは規則です」
日本人に対して「みなさん飛び込んでいますよ」 日本人はとかく横並び意識があるので周りと同じようにする傾向があります。これからの時代は個性も大事ですね。

 

アメリカ大統領の共通点

世界の情勢を左右すると言われるアメリカの大統領、歴史を見るといるいろなタイプの人がなっています。民主党や共和党など考えが違っても一つだけ共通したことがあります。それは何か?大統領になりたいと思ったことです。 まずは立候補しなければなりません(なりたいと思うから)。そして日本の選挙と違い各州の予備選挙を含め一年間苦しい選挙活動を続けなければなりません。  オリンピックで優勝した人が【勝つことしか考えていませんでした】と発言するのもわかります。強い思いが大切ですね、しかし思いだけではなれないこともあります、優勝者がいれば準優勝もあります。選挙も当選者と落選者がいます。思いだけでは出来なくても可能性はあります、さらに努力が大きければもっと可能性は高まります。天理教では【なってくるのが天の理】という教えがありますが、ただ待っているだけではないのです。強い思いと負けない努力があれば神が応援してくれるものです。

 

設計図

家を建てる時には、設計図を作ります、犬小屋の設計をすれば犬小屋ができます。豪邸の設計をすれば豪邸ができます。 私の会社は一年の初めに新年会パーティを兼ねて従業員全員で経営方針発表会をしています。経営計画を作り皆で共有すれば大きな外部環境の変化がない限り、売上や設備投資・人員計画・利益などおおよそ計画通りにいくものです。設計や計画は思いを表すこと、思いが強ければその通りになるものです。このホームページもパソコン知識の少ない私でも本を読みながら試行錯誤で出来ました。【強い思いは現実化する】。人間関係も同じだと思います、あの人は良い人、私の友人と思っているとその通りになるものです。また逆もあります、あの人は悪い人私の敵、と思っているとそうなるものです。みんないい人と思って友人にしたい。良い設計図を作りたい

 

カマス理論

みなさんは「カマス」を知っていますか?塩焼きや干物、唐揚げにすると美味しい魚です。そのカマスを使った有名な実験があります。  まず大きな水槽を透明な板で仕切って、一方には空腹のカマスの群れ、もう一方にはカマスのえさになるイワシなどの小魚を放します。  カマスたちはえさを食べようとしますが透明な仕切り板にぶつかって傷ついたりします。何度も体当たりをしますが、ついにはあきらめておとなしくなってしまいます。   しばらくして水槽の中の透明な仕切り板を外します、小魚を食べられる状況になるのですが、カマスたちは餌を食べようとしません。小魚が近くを泳いでいてもまったく反応せず、最後にはそのまま餓死してしまうそうです。  同じ実験を何度やっても、同じ結果になるそうです。   企業や組織、スポーツでも挑戦して何度やっても上手くいかないとあきらめてしまったり、【できない】という思い込みになってしまうことはあるのではないでしょうか? できないという思い込みそれが「透明な板」なのです。状況が変わり、板がなくなっても飛びつく勇気がわかなくなっている。  そんなことはないだろうか?   さて、このかわいそうなカマスを救う方法はないのか?  あるのです。 新しいカマスを水槽に入れるだけです。新しいカマスは美味しい餌に飛び ついていき食べるのです。それを見ていたあきらめていたカマスも餌を食べることができるようになる。

 

幸せの秘訣はどこにある?

ギリシャ神話の中に、こんなお話があります。  むかし、むかし、オリンポスの山に住む神様たちが会議を開きました。【幸せの秘訣をどこに隠せば、人間がそれを発見したときに最も感謝するか?】 ということを話し合った。ある神様は【高い高い山の上なら、なかなか見つからないから山の上に隠そう】また、ある神様は、いやいやそこでは見つかってしまう、【地中深くに隠したほうがいい】  いやいや、【深い深い海の底に隠すべきだ】など、様々な意見が出て決まらなかった、最後にある神様が、幸せの秘訣は【人間の心の奥に隠すのが一番いい】と提案した、神々は満場一致で賛成し決まった。 というお話です。          太古の昔から人々は幸せの秘訣を求めて探し続けたがなかなか見つからなかった、遠くにあると思っていたのかもしれない。  朝、目覚め、朝日を浴びて、鳥のさえずりを聴くとき、当たり前と思えばそれまでですが、戦争をしている国の人から比べると、なんと平和で幸せなことか。 と感じられることが幸せの秘訣なのかもしれない。

 

みんな違ってみんないい

このブログは私の思うところを勝手に投稿しています。読まれた方で、それは違うよ、その考え方はおかしいと思う方もいらっしゃると思います。それで当然なのです。人は、それぞれ育った環境も違います、経験も違います、同じ人は誰一人としていない、考え方も千差万別です。 このブログを通して幸せとは何か?を考えるきっかけになっていただければありがたいです。 みんな違ってみんないいのです。

 

日本の神様は働き者

キリスト教では神様は6日間かかって天地や動物人間を作られた、そして7日目 神様はお休みになった(天地創造の話) しかし、日本の神様には休むということがないのでしょう。天理教では天地自然が神(水が蒸発して雲になり雨として降り田畑を潤し、飲み水にもなる自然の循環や、人間の心臓も絶え間なく動き、呼吸筋も休むことなく動き自分の意志に関係なく動くことなど)を神の働きと考える。日本では神の働きは休むことがない。 キリスト教では神が、アダムとイブが禁断の実を食べたため、アダムには額に汗して働く苦痛を、イブには出産の陣痛の苦しみを当たえられたということです。つまりキリスト教では働くということは苦痛という考えです。  対して日本では働くということはありがたいことという考えです。あと一か月で【勤労感謝の日】が来ます。日本の祝日に関する法律の条文では【勤労をたっとび、・・・・互いに感謝する日】 となっています。働く人に対して感謝する意味合いもありますが、仕事があること、できることへの感謝のほうが大きいのだと思います。 私のような会社を経営するものにとって仕事は苦痛ではなくありがたいものです。仕事がなくなれば会社がつぶれ、社員も職を失い路頭に迷います。仕事があること、健康で仕事ができること、ありがたいことです。感謝感謝!

幸せは自分の心が決める

二つの町に挟まれたオアシスに「一人の老人」が座っていました。隣の町から来た人が老人に尋ねた 【この町はどんな町ですか?】 老人は答えずに、逆に聞き返した。【今までいた隣の町はあなたにとってどんな町でしたか?】男はしかめっ面をして【たちの悪い人がおおくて、汚い町ですよ】 老人は答えました【あなたがそう思っているなら、この町の人も、たちが悪くて、汚い町ですよ】。   しばらくすると、さっきの男が来た隣町から 別の男が やってきました、別の男も同じように【この町はどんな町ですか?】老人は質問に答えず、【今までいた隣の町は,あなたにとってどんな町でしたか?】その男は【親切な人が多くて、きれいな町でした】 老人は答えた【あなたがそう思っているなら、この町も親切な人多い、きれいな町ですよ】   物事を見る姿勢で見えてくるものが違うものです。周りのせいにしてはいけないと思います。幸せは自分の心が決める。 何事にも感謝できれば陽気に暮らせる。

リーダー

集団生活をする動物には必ずリーダーがいるものです。猿山のボス、ライオンのキングなど腕力の強いものがリーダーになる。しかし人間社会は腕力ではない。自然発生的なリーダー(ボランティア団体や、サークル活動、PTAなど)の条件は、①皆をまとめていこうとする心(自分勝手な人にはついてこない)、②成し遂げようとする熱意(熱意は人を引き付ける磁石)、③それについての知識がある(知識がないと間違った方向へリードすることがある。そういう、まとめる心・熱意・知識のある人が自然とリーダーになって皆がついていく。会社や天理教の後継者も血縁だけではリーダーは勤まらない、人を引き付ける人間的なものがないと真のリーダーにはなれないものである。教会長になるにはもっともっと精進しなければと思う。

泣き婆さん

京都の南禅寺の門前に、“泣き婆さん”と呼ばれる女性がいた。彼女は雨が降れば降ったで泣き、天気が良ければ良いで泣く。雨でも晴れてもいつでも泣いていた。南禅寺の和尚が不審に思い、こうお尋ねになった。「一体、おまえさんはなぜいつもそう泣くのか」すると婆さんは言うのだった。「私には息子が二人おります。一人は三條で雪駄屋(せったや)をやっております。もう一人は五條で傘屋をやっています。良い天気の日には、傘屋の方がさっぱり商売になりませんので、まことにかわいそうでなりません。また、雨降りになりますと、雪駄屋の方は少しも品物がはけませんので、困っているだろう。そう思いますと、泣くまいと思っても、泣かずにはいられません」  そこで和尚は「なるほど、話を聞いてみれば一応はもっともな様であるが、そう考えるのは下手じゃ。わしがひとつ、一生涯うれしく有難く暮らせる方法を教えよう」とおっしゃった。 婆さんはひざを乗り出して、「そんなけっこうな事がありますならば、是非ともひとつお聞かせください」と言った。和尚は次のような話をした。天気の良い日は、今日は三條通りの雪駄屋は千客万来で目の回るほど繁盛すると思うが良い。雨の降る日には、今日は五條通りの傘屋の店では品物が飛ぶように売れていると思うが良い。こう考えれば、晴れれば晴れたで嬉しいし、雨が降れば降ったで嬉しいであろう」  それ以降、泣き婆さんは楽しく暮らしたという。天気だけでなく人間にも良い面悪い面がある良いほうを見たいものです。せっかちは行動力があると思い、なかなか行動を起こさない人は穏やかな性格と見ると皆いいひとに見える。陽気暮らしのコツかもしれない。

小乗仏教と大乗仏教

【小乗】とは小さな乗り物のようなもの、小さな船に自分たちだけが乗るイメージです。小乗仏教の出家した人は、まず自分の修行を優先して、自分が悟りを開くまでは他人を救おうとしない、出家した人だけが救われるという、救いの船が小さいというイメージです。【大乗】とは、大きな乗り物ということで、全ての人が船に乗って救われるイメージです。大乗仏教は自分も他人も同時に幸せにする仏教です、出家していない在家の人も含めて全ての人を救う宗教です。日本の仏教はどの宗派も皆、大乗仏教です。天理教も自分が救われるためだけに信仰するのではなく、みんなが陽気に暮らせるように信仰する宗教です。人は皆一列兄弟です。(出家とは世俗の生活を捨てて修行をすること、通常の日常生活をする人は在家)

できる人よりできた人

仕事や色々なことができると【できる人】と言われます。若い時はできる人でもいいのですが、ある程度年齢を重ねたらできる人より、【できた人】と言われたい。仕事はコンピューターに置き換わったりロボットにでも出来る。人間性を高めることは、人間だけにしか出来ないのですから。心の成人が必要ですね、精進しなきゃ。

愛と恋

キリスト教は【愛の宗教】と呼ばれます。聖書には【愛は寛容であり、愛は情け深い】など愛という言葉が504回出てきます。愛とは何か?相手を大切に思う気持ちです。与えるものです。 恋というのは相手に対して自分に関心を持ってもらいたい、自分だけを見てほしいという自己中心的な求める愛です。本当に好きな相手ならば、たとえ相手が自分を愛してくれなくても愛そうとします。それでは自分がみじめだと思う人は、本当に相手を愛しているのではなく、自分を愛しているだけなのかもしれません。連れ合いが認知症になって何もわからなくなっても看病している人を見ると本当の愛を感じます。 本当の愛は求めるものではなく与えるものなのです。天理教も神様にご利益を求めるだけの宗教ではなく見返りがなくても人助けをする宗教だと思います、助け一条の道が大切ですね。

終活

終活とは【人生の終わりについて考える活動です】残された家族の負担を減らすために行うものです。私もそろそろ終活始めなければと思う。ただし家族のために身の回りを整理することも大切だが、今まで生きてきてお世話になった社会に対して恩返しするのも終活ではないだろうか?まだ元気なうちに何かして恩返ししたい。

悩み・悲しみ

人は誰でも悩み・悲しみを持っている。 しかし、悩み・悲しみの大半は時間が解決してくれるものです。明日のデートにどんな服を着ていこうか?夜中まで悩んでも当日になれば悩みは消えている、決めた服を着てデートに行っているのですから。また、悩まされていた上司も時間がたてば転勤していったことで解決したりする。失恋の悲しみや家族がなくなった悲しみも時がたてば癒される。人間は忘れることのできる動物だから。  残された悩みの大半は人に話せば解決するものです。一人で抱えていた悩みが人に話すことによって解放されたり、2人で悩みを共有することによって半減したり、悩みの元を整理できたりするものです。  私はタイムマシンではないので時間を進めて悩みを解決することはできない、しかし人の悩みを聞くことはできるかもしれない、教会を地域に開き お悩み相談会 など出来れば人助けになるのではないだろうか。

人を助けてわが身助かる

天理教では人を助けてわが身助かるという教えがあります。天理教教祖は自分が貧のどん底に落ちても困っている人に施した、人を助ける気持ちのある人はそもそも助かっている。陽気暮らしをしている人だと思います。自分の悪い因縁(前世から引き継いだ運命)を切るために一生懸命信仰している人がいるが、本来の人を助ける気持ちではないだろう、自分が助かりたいから人を助けるではご利益信仰になってしまう。神様の求めるものではないと思う。人を助けたいと思って活動した結果がその人本人が恵まれるということだと思います。天理教はご利益を求める信仰ではないと思います。

歳をとる

歳をとると、体力がなくなる、しわが増える、物忘れが多い、あちこち痛くなる、髪が薄くなる。若い時に比べて失うものが多いですが、それを補って余るほど得るものも多いものです。人生経験を通して、全てのことはどうにかなると思えるようになる、人を許せるようになる、視野が広くなる、自分らしく生きられるようになる。身体は衰えても、心は成長し続けるものです。心の成人をすることが歳をとっても生きている価値ががあるのではないだろうか。

カルト教団

宗教は人の心をすくい人生を幸せに生きるための教えですが、中にはカルト教団と呼ばれる、人を不幸にする宗教団体があります。 カルトとは異端的な集団、カリスマ的教祖がいる、洗脳されてしまう、恐怖心を煽り多額の献金をさせられるのがカルト教団です。オウム真理教事件、旧統一教会問題など、宗教に対する見方が変わって、人の心を救う宗教も布教がしづらい時代です。奇抜な恰好をしていると洗脳された人たちと思われます。

 

戒律

イスラム教や仏教などには戒律があります。イスラム教では 豚肉を食べないとか、女性は肌を露出してはいけないなど、また仏教も、肉食や妻帯が禁じられた宗派もありました。制約があります、カトリック教会も神父は男性だけです、男女の差別をする宗教も多いですね。天理教では食べ物などの規制や男女の差別もありません。世界で一番開かれた人間尊重の宗教だと思います。最後(ダメ)の教え と言われるのがわかります。

神名流し

天理教では布教活動の手段として神名流しと言って【天理王命】と書かれた垂れ幕をもって拍子木を叩いて行進したり、黒いはっぴを着て歌を歌ったり、路傍講演と言ってマイクでお話をしていたりすることがある。 天理教が始まったころは印刷機もない時代であったので、宣伝するには他に方法がなかったかもしれない、しかし現代ではチラシも簡単に印刷できる時代です。私の若いころ【チンドン屋】というのが商店の開店などの時ににぎやかに演奏して客寄せをしていた光景を覚えています。しかしテレビの普及や新聞折込広告の普及によりチンドン屋は見かけなくなった。テレビや新聞折込のほうがより詳しい商品のPRができたり広い範囲にPRができるからです、内容を知らせるには効果があります。目的は広報です、より効率的な手段を使うべきです。それが目的を達成する最良の方法だからです。【神名流しは】天理教を知らない人にとっては異様な風景に見えてしまいます。カルト宗教と思われることの方が多いのです。実践している人は天理教に子供のころから接している人が多く異様なものに見えないので、一般の人がどう感じるかがわからないのでしょう。私は天理教は世界一の素晴らしい教えだと思っています。チンドン屋のようなことをせず、チラシを配ったりインターネットを使って、素晴らしい教えをPRするほうが本当の布教になると思う。神名流しは本来の目的を忘れて、昔からの手段に固執しているように感じるのは私だけでしょうか? しやんたのむで、の言葉が響いてきます。

諸行無常

諸行無常とは、この世のものは絶え間なく変化し続けているということ。変わらないものはないということです。人生のはかなさや命のもろさなどが連想されます。しかし、人が死ぬのも無常ですが、生まれるのも無常、成長するのも無常、不幸だった人が幸福に恵まれたりするのも無常です。万物は流転しています、だからこそ努力することや、一瞬一瞬が大切な時間であり、限りある命が貴重です。  世の中決して努力する人に対して【無情】ではありません。

 

創業は易く守成は難し

知り合いの会社や、団体からの周年記念式典の招待状が届くたびに、頭に浮かぶ言葉です。創業とは会社や団体など新しく始めること。守成はそのできたものを守り固めていくこと。創業は易しと言っても何もないところから新しいものを作り上げるのですから大変な努力が必要です、しかし勢いというものが応援してくれるものです。半面、出来上がったものを継続していくのは一見たやすいものと思われますが、創業よりさらに多くの努力と変革してゆく勇気が必要だということです。始めることより続けて行くことの方が何倍も難しいものです。   天理教の教会も創業時と比べると時代も変わり人々の意識も変わっています。同じことをしていては人の心を助けることは出来ません。創意工夫と変革する勇気が必要ですね。毎月同じような教内の行事をこなすことも大切ですが、それをすることで仕事をしていると、自己満足してはいけないと自分に言い聞かせています。今後は子ども食堂を手始めに、独居老人の昼食会や悩み事相談会など地域社会に目を向け教祖のひな形【助け一条の道】の1000分の一でも実践していけたらと思っています。

仏教を一言でいうと

昔、中国の 白楽天(はくらくてん)という儒者が、木の上で瞑想している鳥窠(ちょうか)という高僧に、【仏教とはどんな教えか一言でご教授願いたい】と聞いたところ、【もろもろの悪をなすことなかれ、つつしんで善を修ること仏教】と、答えた。つまり悪いことをしないで良いことをするのが仏教だというのです。それを聞いた白楽天は、【そんなことは三才の子供でも知っているわいばかばかしい】と笑った、鳥窠は【三才の童子も、これを知るが、八十の翁もこれを行うのは難し】と言った。白楽天は返す言葉がなかった。天理教は一言でいえば【神と神が作った天の理(自然のプログラム)に感謝し陽気に生きる】と私は思っている。しかしどんなことがあっても感謝できるか?これは難しい。天理教河原町大教会の初代会長は(けっこう源さん)と呼ばれた深谷源次郎さんです、何があっても、けっこうけっこうと感謝する人であった、あるとき京都の町に一か月も雨が降り続きました、さすがに結構とは言わないと思って周りの人がどう思うか尋ねたところ【京都の町に一晩で大雨が降ったら川があふれ町は水に沈んで、家も家財も流されてします。、毎日少しづつ降っているからそんなことにならない、ありがたい、けっこうなことだと】言ったそうです。また、柱の角に足をぶつけ、悶絶しながら【けっこうけっこう】と言われたそうです【痛みを感じる、この身体がありがたい】自分にとって悪いことも感謝できればいつも陽気暮らしができます、そんな大きな人間にいつかなりたいと思う。

しやんたのむで

お筆先(教祖が書き残したもの)は親が子供を諭すような言い方で書いてある。その中で【しやん】という言葉が数十か所も出てきます、【しやん】というのは思案ということ、親が子供に考えてほしいということです。(例)【このさきハ心しづめてしやんせよ】   しやんせよ といくつも同じ言葉が出てきます。神の言うことを考えてほしいということだと思います。お筆先の最後の歌は【これをはな一れつ心しやんたのむで】と締めくくっています。遺言ではないでしょうか? 【しやんせよ】という言葉が最後だけ【しやんたのむで】となっています。神様が人間に対して頭を下げてたのんでいるような姿が脳裏に浮かびます。白いものでも黒と言われたら黒と思わなければいけないのではなく、本当によく考えなければ頭を下げてたのんでいる神様に申し訳ないと思うこの頃です。

 

都市伝説

一日幸せになりたければお酒を飲みなさい。

一か月幸せになりたければ結婚をしなさい。

一年間幸せになりたければ新しい家を建てなさい。

一生幸せになりたければ天理教の教会に参拝しなさい。

(信じるか信じないかはあなた次第)

名前を変える

2024年から【国体】が【国スポ】になります。長く親しまれた 国民体育大会が国民スポーツ大会に変わります。体育というのは教育として身体を育てるというイメージです。スポーツは練習をして競う合うというイメージや楽しむというイメージがあります、実態に即して、世界的に通用するスポーツという名称になるのはいい事です。天理教の教祖も はじめは【神】次 に【月日】そして【親】と神様の呼び方を変えました。神より親の方がわかりやすいですね。変えるのは勇気のいることですが、よりわかりやすくするイメージ作りも大切ですね。ちなみに私の会社も 【○○工業】から30年前に【プラックス】と社名を変えました。+(プラス)とX(エックス)つまり足し算を掛け算に変える。10人たす10人が20人ではなく、100人の力になるように、したいということから名付けた造語です。【+】を【X】に変えるにはどうするか?+を45度傾ければいいのです。お客様の声に、社員の声に耳を傾ければいいのです。

 

コースターの心

私は22歳の時に会社を始めました。その時に母親から言われた言葉は【経営者になるならコースターの心でやりなさい】ということです。 部下やお客様を水のたっぷり入っているコップと仮定して、頭ごなしに動かそうとするとコップは抵抗して倒れて水はこぼれてしまいます。しかしコップの下に敷くコースターになって、コースタを自分の元に引き寄せればコップの水をこぼすことなく引き寄せることができます。コースターのように、人の心の下に入り、多くの人を自分の元に引き寄せられたら、1人の力が10倍の力になる。

感謝する人は恵まれる

私は、月に一度天理教本部へ日帰りで参拝します。神殿の前で柏手を打って頭を下げますが、拝をしている時間が5秒くらいです。一緒に行った人がせっかく東京から一日かけて、新幹線を使って参拝に来るのだから、もっと時間かけて多くのお願いをしたらどうですか?と言われますが、ありがとうとお礼をいうだけだから5秒で十分というと、あなたは全てに恵まれているから、感謝だけでいいかもしれないが、恵まれない自分はもっといろいろ神様にお願いしたいと言われました。ある調査によると【感謝する人は恵まれる、恵まれる人は感謝する】とのことです。どちらが先か?同じような議論に 【鶏が先か、卵が先か?】という議論があります。鶏が先にいて、その鶏が卵を産むから鶏が先と言えば、その鶏は卵から生まれたから卵が先となる。堂々巡りで結論が出ない。しかし、感謝が先か?恵まれるのが先か?は結論が出る。人間ができるのは感謝恵まれるのは神様の領域だと思います。

大企業病

私は電子機器関係の会社を経営しています。日本の総合電機メーカーとの取引も多くありましたが、ある大企業は傾いて、外国の会社に買われてしまったところもあります。中小企業のうちは社長以下社員全員で客様の開拓をして、上司は部下をよく見て、会社を発展させて行くのですが、大企業になると、一部の幹部社員はお客様や部下のおかげということを忘れて会社の上司のご機嫌を伺っている人もいます、部下やお客様より上司の忖度優先になった会社は衰退します。これは会社に限ったことではありません。大きくなった組織・団体・大学など、常に自分自身を振り返り原点を忘れないようにしないといけませんね。

 

武蔵府中

武蔵府中は昔の地名です。武蔵の国の国心地で武蔵府中です。武蔵の国は、現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部にまたがる大きな国でした。日本の国の初期、大和朝廷がまだ、日本全国を統治できずに、九州地方では【くまそ】が朝廷に抵抗していた、そこで天皇は皇太子である【ヤマトタケル命(日本武尊】に、くまそ征伐を命じた、戦にめっぽう強い日本武尊は、くまそ を組み伏せて平定した、日本武尊が大和に帰るとすぐに天皇は残る東の国の征伐を命じた、日本武尊は抵抗する東国もねじ伏せて、ようやく大和朝廷は日本を統一した。日本武尊はこれで戦争も終わり平和な日本になったということで、最後に抵抗していた地に、もう武器は必要ないから武器を蔵に入れようということで。この器をに入れたところが武蔵の国。器のの字をとって武蔵という地名になったということが古事記に書かれています。武蔵は平和を象徴する地名といえるかもしれません。この平和な武蔵の国の国府の中心から、ウクライナに一日も早く平和が訪れることを祈ります。

南無

天理教では神様の名前をお呼びするときに【南無天理王命】と言います。 【南無】とは仏教用語です、古代インドのサンスクリット語でnmasuを南無と音訳しています。 意味は【帰依】するということです。 【帰依】とは、自己の心身をささげて信頼する、絶対の信をもってよりどころとするという意味です。  南無阿弥陀仏や南無法蓮華経 など 信じていますということ。 また最後の【命】(みこと)は神様や人の呼び名の下につける敬称です (大国主命やヤマトタケルノミコト)など。教祖は神の社になる前は敬虔な仏教徒であり、当時は神仏習合の時代で仏も神も一緒に祭っていた時代なので、両方を取り入れたのではないでしょうか。

上善如水

【上善如水】は私の人生の座右の銘です。 人間の最上の生き方は水のようなものという意味です。 水のような心で生きることが最高の善。 ① 水は丸い器に入れば丸くなる、四角い器に入れれば四角になる、しかし水という本質は変えていない【柔軟な心】  ②水はいざとなれば岩をも砕く力がある【強い心】  ③水は常に低いところに自分の身を置きたがる【謙虚な心】 ④水は全てのものの命をはぐくみ成長を支援する。 ⑤水はたとえ自分の身が汚れても触れ合うものをきれいにする性質がある。 こんな水のような人間になりたい。

神様は見えない

神様はどんな姿なのでしょうか?と聞かれても答えられない。見えないのですから、見えないものは信じないという人が多いです。パソコンはハードウエアと、ソフトウエアがあります。ハードというのは半導体や液晶画面やキーボ―ドなど目に見えます形があります。半面、ソフトは仕組みプログラムなので目にはみえませんが働いています。ある操作をすればそれに見合った結果を出してくれます。そういったプログラム・システムがソフトウエアです。神様も同じです目には見えないが、働いている、プログラム・システムのようなもの、天地自然の仕組み・法則(理)と私は理解しています。

お道の人

天理教では信者の方を、【お道の人】と呼びます。道とは何か?天理教そのものをお道と考えます。人生を道路と考えると、いばらの道や崖路を通り抜けてやがて広くきれいな道にたどり着く、またそれを続けていくことが道なのでしょう。辞書によると、【道】という漢字は【首】と【しんにゅう】で出来ています。【首】は人間を表し、【しんにゅう】は往来を表すそうです。人が物理的に行きかう場所それが【道】です、そこから発展して、人が何度も同じことを反復して得た最高の善を【道(どう)】という、【剣術】をきわめて【剣道】、 天理教信者として成長を目指し、そして得た善が【お道】ではないだろうか?天理教信者と言われるより、お道の人、と言われるように精進していきたい。

二つ一つが天の理

天理教では【二つ一つが天の理】と言います。 天と地・昼と夜・男と女・右手と左手・ボケとツッコミ  相反するものや、違うもの二つが一つになって良いものを作り出すものです。漫才もボケとツッコミがあるから面白いものです。人間も男と女がある、それぞれの持ち味を生かして協力していくところに良い世界ができるものです。これが親神様が作られた天地自然の法則【理】です。

 

不老不死

数年前のことでした、布教者が何度か訪ねてまいりました、あまり熱心に来てくれるので話を聞くことにしました。【ものみの塔】という雑誌をもって来ました、エホバの証人という宗教団体です。『もうすぐハルマゲドンが来て人類は滅ぼされる。しかしその時にエホバの証人は生き残る。信者になれば楽園で楽しく幸せに不老不死となって永遠に生きられる。』というのです。私が不老不死は楽園とは思えませんというと、あなたは死にたいのですか?と聞いてくるので、私もいつまでも若々しく長生きしたい気持ちはあると言いながら、その時に私の財布に一万円札が入っていたので取り出して【この一万円は使えばいずれなくなってしまう、だからこそ尊いのです、使っても使ってもなくならないとしたらこの一万円の価値はあるでしょうか】【命も同じです、いつかはなくなってしまうものです、だからこそ価値があるのです。この一瞬一瞬が価値のある時間になるのであっていつまでもなくならない命に何の価値があるのでしょうか?】と聞いたら返事も無くて帰ってしまった。その後布教師は我が家には現れない

命を引き継ぐ

お彼岸なので墓地に行って花を手向けました、花はなぜきれいに咲くのでしょうか?  花は、自分で動くことの出来ない花はきれいに咲くことによって、甘い香りを出すことによって、甘い蜜を出すことによって、昆虫を呼び寄せ、花粉を運んでもらい次の世代に命を引き継いでいるのです。人間以外の生き物(植物・魚・動物など)は何のために生きているのでしょう。仕事もないし、趣味もない、スポーツを楽しむわけではない、まして陽気暮らしをするわけではない、受け取った命を次の世代に引き継ぐ、そのためだけに生きているのだと思います。武蔵府中分教会も95年にわたり多くの先人たちに引き継がれ今日までやってきました。これも一つの命ではないかと思うのです。この命を絶やすことのないように私が引き継がなければと感じるこの頃です。 

 

何故赤ちゃんは可愛いか?

テレビを観ていたら、動物の赤ちゃんシリーズをやっていました。タコの赤ちゃん。カバの赤ちゃん、ワニの赤ちゃん、みんな可愛いですね。なぜ赤ちゃんは可愛いのだろうか? 小さいから?いいえ像の赤ちゃんは大人になった猫より大きい。大きさでは無いようだ。 しぐさや表情が愛らしいのだ。赤ちゃんは一人では生きていけない、可愛くないと生きていけない、。可愛いからこそ、親や周りの大人たちは守ってくれる助けてくれる。そんな仕組みを親神が作っている。そんな可愛い赤ちゃんも男の子は18歳くらいになると、ひげが生えてごつごつして力強くなる。一人で独立して競争社会で生き抜いていくために強く見せなければ負けてしまう。これが自然のプログラム、神様が作った天の理なのだろう。なんと素晴らしいシステム。

いただきます。ご馳走様

食事の時の【いただきます】は誰に対して言うべきか? 人間は,野菜でも肉でもそれぞれ命があったものを殺生して自分の身体を支えるために食べるものです。他の植物・動物の命をいただくのでそれらに対して命をいただきますと感謝して食べるべきですね。安い肉だからまずい!などと言っては命をいただいたものに失礼ですね、感謝して食べなければ、   【ご馳走様】は誰に対して言うべきか?食事を出してくれた人に対していうべきですね。昔はスーパーマーケットや冷蔵庫などがなかったので、お客様に食事を出すためには野や山を駆けずりまわり食材を手に入れたそうです、そんな駆ける走る姿が【馳走】ということです。食材にも料理を出してくれる人にも感謝、感謝です。


天理とは

天理教は【天の理を教える】と書きます。【天理】を国語辞典で調べると、【天地自然の道理】と出てきます。天理大学おやさと研究所が発行している【天理教辞典】によると【理】とは、【宇宙を貫く真理・法則・おや神の思し召し、思わく・ おや神の働き・守護】などと説明されています。おや神様が作られた大自然の法則に沿った生き方が大切だと思います。良い種を蒔けば良い実が稔る、自然の節理です。

最後の教え

天理教は最後(ダメ)の教えと言われます。ダメな教えではなく、ダメを押すとか野球ではダメ押しの一点など、最後のという意味です。宗教は三段階あるといわれます。 一段階は原始宗教と呼ばれるものこれは怖れの宗教です、山が噴火したりすると山の神が怒っていると考えいけにえを捧げたりお祈りをして静まってもらう宗教です。  次に第二段階の宗教は教えの宗教です。教祖が現れて人間として正しい生き方を教えるものです、しかしまだ子供を扱うように、良いことをすればご利益が有ったり、最後は天国にいける。逆に悪いことをすれば罰が下ったり、地獄へ落ちたり、飴と鞭でコントロールする宗教です。  最後の教えである天理教には罪や罰、天国や地獄という考えはありません。心のほこりというものはありますが、ほこりはときどき掃除すれば取れるものです。天の理を教えて、天地自然の法則に従った生き方を説いています。

おふでさき

天理教の教祖中山みきさんが自ら筆をとって書き残したものです、文章は読みやすく 5・7・5・7・7の短歌で書かれています。 最初のほうに【この世は、理でせめたる、世界なり、何かよろずを、歌の理でせめ、・・・くちではゆわんふでさきのせめ】という歌がありますお筆先を書いた目的ですね  この世の中は理という神様の作った原理原則の法則でなっている、この法則を歌で表している、口でいっても忘れるから文章に残してある  というように理解できます。  天の理(神が作られた自然界の法則に沿った生き方)が大切です、ひとを助けてわが身助かる、人を助けようという気持ちのある人が助かる。という原則もあります。

病気

病気は【気を病む】と書きます。周りの環境で心に変調をきたすと、身体も変調をきたすことが多いです。天理教でも【病の元は心から】と説いています。 自然の法則にあった心の持ち方をしていれば、心が整い身体も整います。


親神様

天理教では神様を親神様【おやがみ様】といいます。教祖を【おやさま】と言います。人間は皆、神様の子供、人間は皆一列兄弟です。神様を理解するには、親の気持ち子供の気持ちを理解することが大切です。親は皆子供に幸せになってほしいと思っています。子供も産んでそだててくれた親に感謝をします。そんな親子関係が神様と人間の関係も同じではないだろうか

ハミングバード

南米アンデスの民話です。   森が燃えていました、森の生き物はわれ先にと逃げていきました。でもクリキンディという名のハチドリだけは、行ったり来たり くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは火の上に落としてゆきます、他の動物たちはそれを見て【そんなことをしていったい何になるんだ】と言って笑います。クリキンディはこう答えました。【私は私にできることをしているだけ】  良いお話ですが、本当に森の火事をけしたいなら、みんなに呼びかけて多くの動物が協力すれば森の火を消すことができるかもしれない。自分は自分の信じることをやっているからそれでいいというのは自己満足ではないだろうか?良いことをするには皆を巻き込むことが大切


子ども食堂

子ども食堂を計画しています。月に一度、30人くらいに一食づつ食事を提供し、楽しく食事をしたいと思っています、月にたった一回そして一日三食のうちに一食、多くの子供の中から30人だけ、ハミングバードの民話と同じですが、できることをして、それを多くの人たちに広げて日本中の子供たちに団らんの食事を提供していきたい。


茹でガエルの法則

茹でガエルの法則とは、状況の変化がゆるやかだと、迫りくる危機になかなか気づけないことを言う話です。  カエルを熱湯に入れると驚いてカエルは飛び出しますが、カエルを冷たい水に入れ火にかけて水温を徐々にあげていくとカエルは温度変化に慣れてしまって、最後は熱湯でゆであがって死んでしまうという内容です。組織は変化を好まないものです、現状維持を選択し、状況は悪化しているのにまだ大丈夫だろう、もう少しこのままで行けるだろうと思っているうちに対応できない状況になってしまうものです。日本の宗教界もこれと同じではないだろうか?宗教は人の心を救い幸せに生きるために必要だと思います。今こそ改革をしなければならない時期だと思います


貸しもの借り物

天理教では身体は神様からの借り物、心だけが自分のものと考えます。心臓も呼吸も自分の意思に関係なく365日24時間動き続けます、病気になりたくなくても病気になったりします。自分のものではないから仕方ないのです、借り物ですからいつかはお返ししなければならないのです。死ぬということは借りていた身体を返すこと。借り物なのでありがたいと思って使わせていただくべきです。ありがたいと思っていれば貸し主ももう少し使っていいよと言ってくれるでしょう。

ひながた

天理教では教祖様の通られた生き方を同じように少しの期間でも真似をして通りましょう、ということで【教祖のひながた】をたどるということが、推奨されます。教祖は庄屋敷の家庭であったので、貧しい人の心を理解するために貧に落ち切りました、【貧に落ち切らねば難儀なるものの心がわからん】と言って家財を売って貧しい人たちに施されました。貧に落ち切るのが目的ではありません、難儀な人の心がわかるのが目的です。教祖の通られた生き方は【たすけ一条】の道です。助け一条の道を通るのが【教祖のひな形です】    貧に落ち切ることを強調する人がいますが、それは目的を忘れた手段だけを言っているものだと思います。


奇跡

天理教を熱心に信仰すると、癌が消えたり、目が見えない人が見えるようになるような奇跡が起こりますか?と聞かれることがあります、もちろん奇跡はありますが多くはないですね、なかなか難しいですね。しかし考えてみると人間一人の血管の長さは10万キロメートル、地球二周半分の長さです、一人の人間の血管だけです。動かそうと頑張らなくても寝ている間も心臓は動いています。呼吸もしています。野菜や穀物を食べても運動するためのエネルギーになったり、血や肉になったり、細胞も新しく常に更新され、傷跡も消えて行くものです。これを【奇跡】と言わずになんというのでしょうか?神様が作られた自然のシステム(理)ではないでしょうか。


お賽銭

神様にお賽銭をあげます、私は毎日ありがとうという気持ちで賽銭箱にお供え金をあげます。たまにお願い事がある時にもお供え金をあげます。自分の気持ちをお金に変えたのです。ただし金額が多ければ願いがかなうとは思っていません。神様をお金で買収するような気持ちではいけないと思います。また、他の人に対してこの程度の金額では駄目だよ、もっと多額のお金をあげないと助からないなどというのは、人の心の弱みに付け込んだいけないことです、神様の教えに反することです。あくまでも自分の気持ちで賽銭をお供えしないといけないですね。

不易流行

変えてはいけないもの、時代に応じて変えていかなければならないものがあります。それには目的と手段を取り違えてはいけないと思います。昔、お台場近くに室内スキー場が作られました、作るときにリフトには風速計をつけなければならないという規則がありました、吹雪で危険があるので風速が何メートル以上になったら自動的にリフトが止まるシステムです。これはスキー場が野外に作られた時に決まった法律ですが、室内では吹雪がないので不要なのですが、規則だからつけないといけないと問題になりましたv。何の目的で風速計をつけるのか目的を忘れて手段が目的になってしまった例だと思います。   常に目的は何なのか理解し、考え行動することが必要だと思います。目的は変えてはいけないが手段は時代や環境によって変えていくべきです。

職業について

あらゆる生き物の中で人間だけに与えられたものの中に【職業】があります。ほかの動物は自分が食べるために働きますが、人間だけは他人のために働きます。そしていろいろな職業があります。医者は人の命を救うために、農家は多くの人々に、おいしいものを食べてもらうために、それぞれその職業を通して他の人のためになるのが人間としての一番大切な生き方だと思います。自分に与えられた仕事を常に工夫・改善し、常に進化させて快適な人間社会を作ることが大切です、人間だけに与えられた職業という特権を生かし、世のため人のためにこの命使わせてもらいたいものです。


水車の

水車は水の中に半分つかり、半分は空に出ている。川の流れを俗世間とするならば、また空の空間を理想の世界とするならば、水車がすべて水の中にあると俗世間に流されてしまい欲望のままに生きてしまう。また、水車がすべて空にあると水車は回らないし、自己満足の世界に浸ってしまう。。水車が力強く回って力を発揮するには、俗世間と理想の世界、両方に身を置かねばならない

手当て

おなかが痛いときにおなかに手を当てる、指をけがしたときに手で傷口を抑える。日本では昔からケガや病気を治すことを『手当て』をするといいます。手を当てると心が落着き オキシトシン という物質が分泌され免疫力や自己治癒力が増加するといわれます。天理教では 『おさづけ』と言って悪いところに手を当てて神名を呼んで治療する方法があります。その場合も患者の心を落ち着けて安心感を与えることが大切です。オキシトシンの力も借りてお助けしましょう。

おぢば帰り

天理教では奈良県天理市にある天理教本部を『おぢば』とよんでいます。9億9万年前に神様が人間の基になるものを宿された場所です。人間の生まれ故郷、故郷のことです。 天理駅を降りると【ようこそおかえり】という看板が見えます。人間は皆、神様の子供、一列兄弟と言われます。夏休みや正月に親元から独立して生活している子供が親元に帰ってくると親はうれしいものです。神様も同じことだと思います。帰れるときにはおぢば帰りをしたいものです。これが親孝行です。                                     

   

有難い

有難いという言葉は仏教からきた言葉です。 あるとき、お釈迦様が阿難(あなん)という弟子に、「そなたは人間に生まれたことをどのように思っているか」と尋ねた。「大変、喜んでおります」 と阿難が答えると、釈迦は、次のような話をしている。 「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。その盲亀が、百年に一度、海面に顔を出すのだ。広い海には、一本の丸太ん棒が浮いている。 丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。その丸太ん棒は、風のまにまに、西へ東へ、南へ北へと漂っているのだ。阿難よ。百年に一度、浮かび上がるこの亀が、浮かび上がった拍子に、丸太ん棒の穴に、ひょいと頭を入れることがあると思うか」  阿難は驚いて、 「お釈迦さま、そんなことは、とても考えられません」。 「絶対にないと言い切れるか」「何億年掛ける何億年、何兆年掛ける何兆年の間に は、ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、無いと言ってもよいくらい 難しいことです」 「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有ることよりも、難しいことなんだ。つまり有り難いことなんだよ」と、釈迦は教えている。 この有難い人間として生まれたことを感謝すればどんなことも陽気にありがたく受け止めることができると思います。

成人とは

日本では2022年から成人が20歳から18歳に引き下げられました。成人するとは何なんでしょうか?子供の時には親にあれを買って、これを買って、どこの学校に行かせてと親に頼み事ばかりしていました。大人になってからは親に対して育ててくれてありがとうと感謝をして、母の日などはプレゼントをしました。天理教でも『成人』するという言葉があります。親である神様に願い事だけをするのではなく、『感謝』する心が本当の『成人』なのではないかと思います。

 

生きる目的

アンパンマンのマーチというアニメソングに 「何のために生まれて何をして生きるのか 答えられないなんてそんなのは嫌だ」
という歌がありますが私たち人間は何のために生まれて来たのでしょうか? 生きる目的は何なのでしょうか?
あまり考えていない人が多いですね。
生きる目的?そんなこと考えたこともない、生まれてきたから一所懸命生きているんだよ。
こんな人を飛行機に例えれば羽田空港を飛び立ったけど目的地なんて考えたこともない、飛び立っちゃたから仕方なくプロペラ回して飛んでいるのと同じこと。目的地がわからずに飛び続けやがて燃料がなくなって墜落してしまう。生きる目的も知らず死んでいく人が意外と多いような気がします。
天理教はだめのおしえといわれています。いろいろな宗教が神の教えを説いていますが10のものなら9まで教え、だめの一点を教えるために天下ったということです。
天理教の神様は人間を作ったのは「陽気暮らしをともに楽しみたい」ということです、つまり人間の生きる目的は陽気暮らしということを初めて明かされたのです。
では、陽気暮らしをするためにはどうしたらいいのでしょうか?
この命をありがたいと思って暮らすことではないでしょうか?

感謝の気持ちで生きるには

私の祖母はいつも大難が小難 小難が無難 と言って悪いことが起きてもありがたいと言っていました、私が若いころ交通事故にあって車が半分へこんでも、生きていればありがたいと言ってくれました。どんなときにも素直に、大難が小難 小難が無難と思える心があればいいと思います、いつもそのように思えることが陽気暮らしになれるのではないでしょうか?
私の母も常に、天理教は拝み祈祷の神様ではないよ、と言っていました。何か願い事をかなえてほしいと賽銭を入れて拝むような神様ではなく、どんなことがあってもありがとうと,感謝する神様だと言っていました、お利益信仰ではなく、感謝する信仰
賽銭をたくさん投げ込んで願いごとをすれば賽銭の少ない人より多くのご利益が得られるという、安っぽい信仰ではないといわれました。
 人間として生まれた以上陽気暮らしという目的に向かって心を作っていくことが大切だと思います。願い事をするだけではなく与えられた出来事を感謝していく気持ちになることが大切だと思います。
 私なりの天理教の考え方です。
 
 民主的な神様

天理教の元始まりの話を読んでみると親神様はなんと民主的な腰の低い神様だろうかと感心するのであります。天保9年10月23日に教祖の中山みきさんに突然、神様が天下り、みきを神の社にもらい受けたいと、中山家の人々にみきの口を通してお願いをされました、そして中山家と神様の三日間のやり取りの末、夫の善兵衛さまはみきを神の社に差し上げます。ということで天保9年10月26日に天理教は始まりました。  絶対的な存在である神様が人間に対してお願いし、3日間も根気よく人間と交渉したのです。そして納得してもらってから行動したのです。何と腰の低い神様でしょうか?こんな神様は世界中の神様を見渡しても天理教以外にはありません。そんな民主的な天理教も一時は民主的なやり方を忘れ専制的になった時期がありました。天理教の会長といってもあくまで人間です、誤りもあればおごりもあります。神様よりも人間を見ていると本来の信仰が変わってしまう恐れがあります。常に神様を見ることが大切です


ゴールはどこか

日本の童話にウサギと亀という話があります。
ウサギと亀が向こうの山の頂上にどちらが早くいけるかという話です。
結果はウサギが負けたのです。
どうしてウサギはカメに負けたのか。カメはウサギに勝ったのか、知っていますか?
 子どもの頃から、あまりに有名な童話です。ウサギは油断して昼寝をしてしまった。カメはコツコツと歩みを進めて、ウサギを追い抜いてしまった。油断をしてはいけませんよという戒めですね。
しかし、これが思わぬ結果をもたらした本当の理由ではない、と思うのです。では、いったい何なのか。 端的にいえば、ウサギとカメでは、「見ているところが違った」ということです。ウサギは何を見ていたのか。ウサギは、カメを見ていました。だから、ノロノロとやってこないカメに、油断をしてしまったのです。 対するカメは何を見ていたか。ゴールを見ていたのです。カメがウサギを見ていたら、昼寝をしているウサギを見て、自分も休んでしまったかもしれない。ところが、カメはそうしなかった。ゴールを見ていたからです。 
言わんとしているところは、ゴールは何かをしっかり見極めること、ゴールを見ることの重要性です。「見ているところ」は正しいか、ということです。天理教信者は何をみて信仰すればいいのか?人間目道ではなく神様目道が大切だと思います。

間万事塞翁が馬

昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。
やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。
人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。
すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。
人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の元になるだろう」と言った。
一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。
しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだという故事に由来する。人生はいいこともあれば悪いこともありますが、悪い時こそこれが幸福の元と考えたいものです

楽しい人生

コップに半分水が入っているのを見てどのように考えるか? もう半分しかないと考えるか?まだ半分あると考えるか?同じものを見ても人それぞれです。 昔、アメリカの大きな靴メーカーが世界市場を調査するために社員を2名アフリカに派遣しました、一か月後 一人の社員からはアフリカの人は靴を履く習慣がないので皆、素足で歩いているので靴は売れないと思います、との報告があった。  もう一人の社員からはアフリカの人は靴を履く習慣がないので皆、素足で歩いています、靴を履く習慣がつけば市場は無限大です。  との報告があった。 同じ状況を見ても、受け取り方は様々です。どちらも間違えではありません。  しかしできればプラス思考で行きたいものです。私も、もう71歳になったと考えず、まだ71歳と考えて余生を積極的にチャレンジを続けて楽しい人生を 送りたい

ブログについて
人間の日常生活のコミュニケーションする時間は  45%が『聞く』、30%が『話す』、16%が『読む』、9%が『書く』 と言われます。『書く』という9%の中でも事務的な連絡ではなく自分の思っていることを書くということはさらに少ないものです。そう考えるとこのブログは私にとっては貴重なものになると思います。私自身の勝手な思いを投稿させていただいておりますが、何かご意見やご指導があれば 、   m.nobuyuki0122@gamil.comにメールにいただけるとありがたいです

 

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